セブンスデー・アドベンチスト教会の教理について

はじめに

セブンスデー・アドベンチスト教会(以下,アドベンチスト教会)は,自分たちのグループについて「聖書主義に立つキリスト教・プロテスタントの教会です」と主張しています。 しかし,アドベンチスト教会の教理を聖書に基づいて調べてみると,本当は聖書主義に立っていないことが分かります。 その非聖書的な教理を,以下に説明してみます。

現在も安息日は土曜日か

聖書は,安息日の起源を記した創世記の2章から新約聖書まで,終始一貫して週の第7日,すなわち現在の土曜日を聖日として定めています。イエス・キリストご自身も,第7日安息日には,「いつものように会堂にはいり」(ルカ4:16)人々と礼拝を共にされました。キリストは,当時のユダヤ人の律法主義的な安息日の守り方,形式主義を批判されましたが,安息日そのものは尊重されました。使徒たちも,キリスト同様安息日を厳守したことが使徒行伝に記されています。聖書のどこにも,第7日安息日に替わって,日曜日がクリスチャンの守るべき聖日として定められたことは書かれてありません。
(セブンスデー・アドベンチスト教会「土曜日に礼拝するといろいろ不都合なことはありませんか?」,2016年)

以上のように,アドベンチスト教会は,現在も安息日は土曜日であると主張しています。 そして,その根拠を聖書に置いています。 しかし,神が初めて安息日の規定(安息日を守りなさいという命令)を人に与えられたのは,出エジプトをしたイスラエルの民がシナイ山のふもとにいた時です(出エジプト記20章8~11節)。 それ以前には安息日の規定はありませんでした。 また,出エジプト記20章8~11節に書かれている安息日の規定はモーセの律法に含まれる命令であり,モーセの律法はメシア(キリスト)の死によって無効になりました(モーセの十戒と新約時代の戒めの関係参照)。 したがって,現在では安息日の規定は廃止されているのです。 現在では,安息日の規定そのものが存在しないのです。 ゆえに,現在も安息日は土曜日であるとか,安息日である土曜日の礼拝を守らなければならないというアドベンチスト教会の教理は,聖書の教えに反しているのです。

ちなみに,聖書的には,現在は礼拝を守る曜日はいつでも良いのです。 日曜日である必要性はありませんので,誤解のないように。

「信仰の大要」における重大な偽(にせ)の教え

アドベンチスト教会が公式サイトで発表している「信仰の大要」(2005年7月世界総会承認版)には,見すごせない反聖書的な教えがいくつも存在します。 以下に,それらについて説明したいと思います。

キリスト論の矛盾

アドベンチスト教会は,イエス・キリストは子なる神だと主張しています(「4. 子なる神」参照)。 また,キリストは完全なあがないをされたとも主張しています(「9. キリストの生涯と死と復活」参照)。 しかし,「24. 天の聖所におけるキリストの奉仕」の項には,次のように書かれています。

2300日の預言期間が終了した1844年に,贖罪の働きの第二のそして最後の段階に入られた。それは,すべての罪を最終的に処理する働きの一部となる調査審判の働きであって,古代イスラエルにおける「贖罪の日」の聖所のきよめに予表されていた。
(信仰の大要「24. 天の聖所におけるキリストの奉仕」より)

「2300日の預言期間」が何を意味するのか,「信仰の大要」を読んだだけでは分かりませんが,問題なのは,「1844年に,贖罪の働きの第二のそして最後の段階に入られた」という部分です。 「9. キリストの生涯と死と復活」の項で,キリストは完全なあがないをされたと主張している(「この完全なあがない」と書いてある)にもかかわらず,「24. 天の聖所におけるキリストの奉仕」の項では,キリストの贖罪の働き,つまり,キリストによる罪のあがないは1844年になっても,まだ終わっていないと主張しているのです。 これは矛盾です。 一方ではキリストによる罪のあがないは終わったと言いながらも,一方ではまだ終わっていないと言っているのです。 そして,おそらく「贖罪の働きはまだ終わっていない」という主張が,アドベンチスト教会の本音だと思われます。 聖書によると,キリストによる罪のあがないは十字架上の死によって完了した(ヨハネ19:30)ので,もはや,あがないは何も必要ありません。 もし十字架上の死が,まだ続きのある(全体としては)不完全なあがないだとしたら,イエスご自身も不完全な存在となってしまいます。 つまり,イエスは神ではない,ということになります。 アドベンチスト教会は,イエス・キリストを「子なる神」だと言いながら,一方ではそれを否定しているのです。 このように,アドベンチスト教会のキリスト論には明らかな矛盾が存在しています。

終末論の間違い

アドベンチスト教会は,教会はキリストが再臨される時に聖なるものとされ(栄化され),天に引き上げられて主に会うと主張しています(「12. 教会」「25. キリストの再臨」「26. 死と復活」参照)。 しかし,教会が栄化されるのは携挙の時であり,再臨の時ではありません(聖書が教える救いと終末論参照)。 まず携挙が起こり,次に患難期があり,そして地上にキリストが再臨されるのであって,患難期の後に携挙が起こるのではありません(「13. 残りの民とその使命」参照)。 また,千年王国(メシア的王国)は文字通り地上にできる王国であり,天における支配のことではありません(「27. 千年期と罪の終わり」参照)。 アドベンチスト教会は,終末論に関しても,全く聖書解釈を間違えています。

また,「26. 死と復活」の項には,「神があがなわれたものに永遠のいのちをお与えになる,その日まで,すべての人にとって死は無意識の状態である」とあります。 しかし,ルカ16章の「金持ちとラザロ」の話を読めば,死後にも意識ははっきりあることが分かります。 また,預言者ヨナは三日三晩,魚の腹の中にいた時,一度死んでいますが,死後にに叫び求めています(ヨナ2:2)。 したがって,死は無意識の状態であるという教えは,非聖書的です

エレン・G・ホワイトについて

アドベンチスト教会は,エレン・G・ホワイトを「主の使者」だと主張しています(「18. 預言の賜物」参照)。 しかし,その聖書的根拠は何一つとしてありません。 「18. 預言の賜物」の項で挙げられている聖書箇所(ヨエル2:28,29,使徒言行録2:14~21,ヘブライ1:1~3,黙示録12:17,19:10)は,文脈を見れば,全てエレン・G・ホワイトとは無関係だと分かります。 また,「主の使者としての彼女の著書は,つねに信頼のおける真理のみなもとであって,教会を慰め,導き,教え,その過ちを正す」と書かれていますが,これは,彼女の著書は聖書と同等の権威を持っていることを示しています。 つまり,アドベンチスト教会は聖書以外に,エレン・G・ホワイトの著書を聖典とみなしていることになるのです。 これは,「聖書のみ」という正統的なプロテスタントの信仰とは相容れないものです。 したがって,アドベンチスト教会はプロテスタントの教会とは言えません

また,アドベンチスト教会はエレン・G・ホワイトを預言者として扱っていますが,聖書によると,現在,預言者は存在しないはずです。 預言者たちは,使徒2章の五旬節の日に誕生した教会の土台になっていて,この土台の上に,キリストのからだである教会が建てられているからです(エペソ2:20)。 もしエレン・G・ホワイトが預言者だと言うのなら,彼女の上に建てられた教会(アドベンチスト教会だけ)が真(まこと)の教会であり,彼女を土台としていないその他の教会は全て偽(にせ)の教会となります。 使徒たちが生きていた紀元1世紀の初代教会も,偽の教会だということになってしまいます。 そのような教えは反聖書的です。 したがって,エレン・G・ホワイトを主の使者(預言者)と考えることは聖書的に間違いであり,必然的に彼女は偽預言者だということになります。 偽預言者を指導者としていたアドベンチスト教会が,まともな教会と言えるでしょうか。

十戒について

アドベンチスト教会は,「十戒はあらゆる時代のすべての人が守るべきもの」と主張しています(「19. 神の律法」参照)。 しかし,十戒はイスラエルの民にのみ与えられた命令であり,現在では無効になっています(モーセの十戒と新約時代の戒めの関係参照)。 したがって,聖書によると,アドベンチスト教会のこの教理も間違っていることが分かります。

安息日について

安息日の規定も廃止されていることは前述したとおりですが,アドベンチスト教会は安息日を「神と民との間における永遠の契約の変わらぬしるしである」と主張しています(「20. 安息日」参照)。 しかし,安息日はシナイ契約(モーセ契約)のしるしであり,永遠に続く契約のしるしではありません。 「20. 安息日」の項で根拠とされている出エジプト記31章13~17節を読むと,「代々にわたり」「永遠に」と書いてありますが,これは「モーセの律法が機能している時代(律法の時代)はずっと」という意味です。 現在は律法の時代は終わり,新しい時代(恵みの時代)に入っているので,シナイ契約(モーセ契約)は破棄されています。 もし,今でも出エジプト記31章13~17節の命令が有効だと考えるなら,14節と15節に書いてあるように,安息日に仕事をした人(例えば,車の運転をした人)は誰でも必ず殺されなければならないはずです。 しかし,この命令に違反して,土曜日に仕事をして殺された人がいるという話は聞いたことがありません。 おかしなことです。

食べ物について

アドベンチスト教会は,「聖書に示されている汚れた食物を絶つべきである」と主張しています(「22. クリスチャンの行動」参照)。 その根拠としてレビ記11章を挙げていますが,この規定もまた,モーセの律法の規定です。 したがって,安息日の規定と同様に,現在では無効になっているので,私たちはどんな食べ物でも食べて良いのです。 もちろん,食物アレルギーなどにより,自分の健康を害することが明らかなものは食べないようにした方が良いと思いますが,新約聖書には,食べてはいけないと定められている食べ物はありません。 肉もぶどう酒も,「それ自体で汚れているものは何一つありません」(ローマ14:14)し,「すべての食べ物はきよいのです」(ローマ14:20)。 アドベンチスト教会にとってローマ14章は都合が悪いためか,根拠となる聖書箇所として一箇所も挙げられていません。 これは,破壊的カルトの常套手段の一つである「情報コントロール」の可能性があると思います。

また,アドベンチスト教会は「アルコール性の飲み物やたばこ,また麻薬や麻酔剤の無責任な使用はからだに有害であるので,これらをも避けるべきである」と主張しています(「22. クリスチャンの行動」参照)。 しかし,お酒や麻酔剤までも禁止するのは,非聖書的です。 例えば,ぶどう酒については,イエス様ご自身が,千年王国(メシア的王国)が到来した時には使徒たちとともに飲むと言われています(マタイ26:29,マルコ14:25,ルカ22:18)。 この時に飲まれるのは,文脈から考えて,過越の食事の時に飲むぶどう酒です。 また,パウロはテモテに,からだのために(健康のために)少量のぶどう酒を飲むように勧めています(1テモテ5:23)。 また,ローマ14章を読めば,飲酒は許可されていることが分かります。 したがって,飲酒禁止という教えは聖書の教えではありません。 また,麻酔剤について言えば,痛みを緩和したり,手術をする時に病院でよく用いられています。 しかし,例えば,もし誰かが大怪我をして,すぐに手術をしなければ死ぬ可能性がある場合にも麻酔剤の使用を禁止するなら,そもそも手術ができずに,そのまま死なせることになると思います。 それは神の御心(みこころ)にかなっているでしょうか。 また,例えば帯状疱疹(たいじょうほうしん)になり,痛みが非常に激しい時には,ロキソニンのような普通の痛み止めの薬を服用しても,ほとんど効果はみられません。 からだに強い痛みを感じている時に,麻酔剤の使用を禁止されたなら,その人はどれほど辛い思いをするでしょうか。 痛みに苦しんでいる人を助けるためには,必要に応じて適量の麻酔剤を使用すべきです。 これが聖書の教える愛です(ホセア6:6,マタイ12:7)。 しかし,アドベンチスト教会の「信仰の大要」では,麻酔剤の使用は禁止されています。 この,アドベンチスト教会の「麻酔剤の使用禁止」という教えは,時には人のいのちを失わせてしまうものであり,血も涙もない,悪魔的な教えです

成就しなかった預言の存在について

「25. キリストの再臨」の項で,「預言がほぼ完全に成就してきたことは,現在の世界の状況とあいまってキリストの来臨が切迫していることを示している」とありますが,「ほぼ完全に成就してきた」ということは,成就しなかった預言が存在することを意味しています。 実際,アドベンチスト教会が誕生する発端になったウィリアム・ミラーという人が,「イエス・キリストは1844年10月22日に再臨される」と預言しましたが,その日にイエス様は再臨されなかったので,期待していた人々は大変失望したそうです。 メシア(キリスト)の再臨の日を預言した時点で,ウィリアム・ミラーは偽預言者だということになるのですが,アドベンチスト教会はそのことを知らないのでしょうか。 そして,ウィリアム・ミラーの重大な罪(偽預言をして人々を惑わせたという罪)について,アドベンチスト教会は何も触れていません。 やはり,情報コントロールをしている可能性が高いと思います。

結論

以上のことから,アドベンチスト教会は全く聖書主義に立っておらず,プロテスタントの教会だとも言えません。 また,アドベンチスト教会のキリスト論には矛盾がある以上,キリスト教の一派とは言えません。 そして,間違ったキリスト論を信じているのなら,信者はクリスチャンではありません。 アドベンチスト教会は,悲しいことに「滅びをもたらす異端」(2ペテロ2:1)だと思います。 どうか,彼らが自分たちの教理の間違いに気づいてくれますように。

2019年4月26日更新
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