本物のクリスチャンとは

エホバの証人(ものみの塔)や末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)は,自らを「クリスチャンです」と主張しますが,聖書を正しく理解すれば,彼らは本当はクリスチャンではないことが分かります(エホバの証人の教理について末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)の教理について参照)。 では,「本物のクリスチャン」とはどのような人を言うのでしょうか。 (このページでは,クリスチャンではないのに「クリスチャンです」と自称する人たちと区別するために,あえて「本物のクリスチャン」という表現を用いました。)

「本物のクリスチャン」を一言で言うと,「主(しゅ)イエスに信頼を置いて救われた人」です。 もう少しきちんと説明すると,本物のクリスチャンとは,福音の三要素を受け入れ,イエスをそのとおりのお方として人格的に信頼した人のことを言います。

福音の三要素とは

ここで,「福音の三要素」と「イエス」について説明しなければなりません。 まず,福音とは,「嬉しい知らせ」「良いおとずれ」という意味です。 そして,「福音の三要素」という言葉は中川健一牧師による造語なので,聖書には出て来ませんが,その内容は,キリストの使徒パウロが受けた福音の中でも「最も大切なこと」であり,「この福音によって救われる」ということですから,その聖書箇所を引用しておきます。

兄弟たち。私があなたがたに宣(の)べ伝えた福音を,改めて知らせます。 あなたがたはその福音を受け入れ,その福音によって立っているのです。
私がどのようなことばで福音を伝えたか,あなたがたがしっかり覚えているなら,この福音によって救われます。 そうでなければ,あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは,私も受けたことであって,次のことです。 キリストは,聖書に書いてあるとおりに,私たちの罪のために死なれたこと,
また,葬られたこと,また,聖書に書いてあるとおりに,三日目によみがえられたこと,
(『聖書 新改訳2017』コリント人への手紙 第一 15章1~4節)

つまり,福音の三要素とは,(1)キリストが私たちの罪のために死なれたこと,(2)墓に葬られたこと,(3)三日目によみがえられたことの三つを意味します。 (「三日目によみがえられたこと」をギリシア語の原文に基づいて,もう少し正確に言うと,「キリストは聖書に従って,三日目によみがえらされて現に生きておられること」となります。) もし福音の三要素の全てを受け入れていなければ,例えばキリストの復活を信じていなければ,いくらその人が「私はクリスチャンです」と主張したとしても,その人はクリスチャンではありません。 また,上記の聖句の引用文は途中ですが,ここまでで良いのです。 なぜなら,聖書全体が教えている,救いに関するキリストのみわざは,キリストの死,埋葬,復活の三つだからです。 また,「聖書に書いてあるとおりに」の「聖書」は旧約聖書全体を指していて,個々の預言を指しているわけではありません。 それでもあえて個々の聖書箇所を挙げてみると,キリストの死と埋葬はイザヤ書53章5~12節などに,キリストの復活はイザヤ書53章10節や詩篇16篇10節などに預言されています。 (その他の箇所として,ゼカリヤ書12章10節,13章7節,詩篇16篇,22篇,ダニエル書9章24~27節も考えられます。)

また,パウロは,自分の宣べ伝えた福音が人間の理性(哲学的な思索)によって得られたものではなく,あくまで神であるイエス・キリストの啓示によって得たことを証言しています。 先のコリント人への手紙第一15章3節によると,パウロが宣べ伝えた福音は「私も受けたこと」であると明言しています。 パウロも受けた福音はイエス・キリストの啓示によることを示す証拠となる聖書箇所を引用しておきます。

兄弟たち,私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。 私が宣(の)べ伝えた福音は,人間によるものではありません。
私はそれを人間から受けたのではなく,また教えられたのでもありません。 ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
(『聖書 新改訳2017』ガラテヤ人への手紙 1章11~12節)

以上の考察から,「本物のクリスチャン」とは,まず「福音の三要素を受け入れた人」と言えます。 「受け入れた」というのは,単に頭で理解したというだけでなく,「まさしくそのとおりだと本気で信じた」という意味です。

イエスとは

では次に,「イエス」について説明します。 聖書(特に四つの福音書)に書かれているイエスという人物に対してきちんと説明する必要がある理由は,エホバの証人や末日聖徒イエス・キリスト教会や家庭連合(旧名称:統一教会)などの異端は,聖書に啓示されているイエス・キリストとは全く「別のイエス」(コリント人への手紙第二11章4節)を宣べ伝えているからです。 彼らは聖書に啓示されている福音とは「異なる福音」(コリント人への手紙第二11章4節)を宣べ伝えることで,人々を救いから遠ざけている「滅びをもたらす異端」(ペテロの手紙第二2章1節)なのです。 以下に,12使徒の一人であるシモン・ペテロによる証言を聖書から引用しておきます。

しかし,御民(みたみ)の中には偽(にせ)預言者も出ました。 同じように,あなたがたの中にも偽(にせ)教師が現れます。 彼らは,滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。 自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し,自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。
また,多くの者が彼らの放縦に倣(なら)い,彼らのせいで真理の道が悪く言われることになります。
彼らは貪欲(どんよく)で,うまくこしらえた話であなたがたを食い物にします。 彼らに対するさばきは昔から怠(おこた)りなく行われていて,彼らの滅びが遅くなることはありません。
(『聖書 新改訳2017』ペテロの手紙 第二 2章1~3節)

聖書に啓示されているイエスは,神であり人であるお方です(詳細はキリスト論三位一体論参照)。 「イエスを信じます」と言う時,そのイエスとは神であり人でもあるお方だと信じる必要があります。 いくら「私はイエスを信じています」と言っていても,そのイエスは神であり人でもあるお方だと信じていなければ,その人は救われていません。 聖書は明確に,イエスは神であり人であると教えています。

まとめ

以上のことをまとめると,次のようになります。 本物のクリスチャンとは,福音の三要素を受け入れ,イエスをそのとおりのお方として人格的に信頼した人のことです。 そして,クリスチャンになった人は,主イエスを通して神と和解し,神の怒りから救われているので,心に平安が与えられます。 その平安は,クリスチャンになる前には決して味わうことができなかった,質的にも量的にも全く異なる平安です(ヨハネの福音書14章27節)。 また,クリスチャンになるということは,キリストに仕える者になること,キリストの弟子になることでもあります。 ただ,ヨハネの福音書8章31~32節によると,イエスは信じた者たち(既に救われている者たち)を,「単なる弟子」(学ぶ者)と「本当の弟子」(イエスに身を預けた者)に二分されました。 ルカの福音書14章25~35節においても,イエスは既に救われている者たちに対し,「本物の弟子」となるための条件を提示しています。 これは現在のクリスチャンにも適用されますが,この話はまた別のテーマになりますので,ここでは採り上げません。 詳しく知りたい人は,参考文献に挙げた「ハーベスト・タイム・メッセージステーション」を参照して下さい。

救われるために,行いは必要か?

異端は救いの条件として,「業(わざ)による救い」,つまり救われるためには何らかの「行い」が必要だと主張します。 しかし,この主張は聖書に基づいたものではありません。 聖書は一貫して「人は恵みのゆえに,信仰によって救われる」と教えています(エペソ人への手紙2章8~9節参照)。 旧約聖書から一つ例を挙げると,創世記15章6節によってそのことがはっきりと分かります。 この時,アブラム(後のアブラハム)には子どもがいなかったのですが,神はアブラムに「あなたの子孫を天の星の数ほど増やす」と約束されました。 アブラハムは175歳まで生きたと書いてあります(創世記25章7節参照)し,15章6節の時には既に80歳を超えていたと推測できます。 この歳は現在の人間に換算すると,40代~50代ぐらいになるのではないかと思います。 アブラムはこの時既に結婚していたのですが,いつまで経っても子どもができないという状況でした。 しかし,そのような状況にもかかわらず,アブラムは神の恵みのことばを信じたのです。 そして,神に対するアブラムの信仰が義と認められたのです。 そこには何の行いもありませんでした。 あくまでアブラムは恵みと信仰によって義とされたのです。 次に,新約聖書から一つ例を挙げると,イエスと共に十字架につけられた二人の強盗のうち,一人の強盗が回心して救われたという記録があります。 ルカの福音書23章42節は,回心した強盗の信仰告白です。 そして43節を読むと,イエスはその強盗を義と認められました。 回心した強盗は十字架につけられていたので,何の行いもできませんでしたが,恵みと信仰によって義とされたのです。 (40~41節の言葉がもう一人の強盗への伝道だと言う人がいるかもしれませんが,これは伝道ではありません。 40節には「彼をたしなめて言った」と書いてあります。 つまり,もう一人の強盗を叱っただけであって,「この方こそキリストだから信じなさい」という福音を一言も言っていないのです。 この点,誤解のないように。) もし,救われるための条件として何らかの行いが必要なら,これらの聖書の話は説明がつきません。 したがって,救いの条件として何らかの行いが必要だと主張するのは,聖書に反した教えであり,そのように教える人は「偽(にせ)教師」(ペテロの手紙第二2章1節)であり,「キリストの使徒に変装している偽(にせ)使徒,人を欺く働き人」(コリント人への手紙第二11章13節)だと言えます。 そのような人はもちろん,クリスチャンではありません。 偽教師たちの間違った教えに惑わされないように,充分ご注意下さい。

人が救われるためには恵みと信仰によることが,ローマ人への手紙に詳しく書かれています。 (詳細は,中川健一牧師による「60分でわかる新約聖書(6)ローマ人への手紙」や,ローマ人への手紙の講解メッセージを参照して下さい。) 特に,ローマ人への手紙3章23~24節のみことばは有名なので,以下に引用しておきます。

すべての人は罪を犯して,神の栄光を受けることができず,
神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いを通して,価(あたい)なしに義と認められるからです。
(『聖書 新改訳2017』ローマ人への手紙 3章23~24節)

補足:「クリスチャン」という訳語について

このWebサイトでは,英語訳聖書で「Christian」と訳されている単語を「クリスチャン」と書いています。 「クリスチャン」という単語が出てくるのは,新約聖書の中にわずか三箇所だけです(使徒11:26,26:28,1ペテロ4:16)。 原語であるギリシア語(単数形)は「クリースティアーノス(Χριστιανός)」です。 この単語は,英語訳聖書では「Christian」(使徒11:26では複数形なので「Christians」)と訳されていますが,日本語訳聖書ではいくつかの訳語があります。 それぞれ翻訳者の工夫が見られますので,参考までに調べたものを書いておきます。 文語訳:「キリステアン」,口語訳:「クリスチャン」,新改訳,新改訳2017:「キリスト者」,新共同訳,聖書協会共同訳:「キリスト者」(使徒11:26,1ペテロ4:16),「キリスト信者」(使徒26:28)。

参考文献

2022年1月10日更新
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