時々,「ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の神は同じだ」と主張している人を見かけますが,その主張は正しいと言えるでしょうか。 「同じ神だ」と主張する人は,「この神は天地万物を創造した唯一神である」と説明し,「だから同じなんだ」と言ったりしていますが,実は同じではありません。 最も分かりやすいのが,イスラム教の神と聖書の神の違いです。 (この場合の聖書とは,旧約聖書と新約聖書の両方を指します。) イスラム教の神は唯一の存在であり,人格も一つです。 しかし,聖書の神は唯一の存在でありながら,父・子・聖霊(せいれい)という三つの位格(人格)を持ったお方です。 したがって,イスラム教の神と聖書の神は全く別の存在であると言えます。
では,ユダヤ教の神とキリスト教の神は同じでしょうか。 この問題を考える時に重要なことは,「ユダヤ教」と言った時に,そのユダヤ教の教えはそもそもヘブル語聖書(キリスト教で言う旧約聖書)から正確に導き出された教えなのか,それとも人間の教えにすぎないのかを知ることです。 伝統的なユダヤ教は,人間によって作り上げられたユダヤ教であって,聖書的ユダヤ教ではありません。 ユダヤ教の特徴は,神が三位一体であることを否定します。 しかし,ヘブル語聖書(旧約聖書)をきちんと調べると,神は三位一体であることが分かります(三位一体論参照)。 「三位一体の神」という神概念は新約聖書に始まったものではなく,旧約聖書に既に啓示されているのです。 旧約聖書の「続き」である新約聖書では,その神概念がさらに明確に示されているだけです。 つまり,旧約聖書の神と新約聖書の神は同一なのです。 別の言い方をすれば,聖書的ユダヤ教の神とキリスト教の神は同じで,三位一体なのです。
以上のことから,「ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の神は同じだ」という主張は間違っていると言えます。
全ての宗教に対して言えることですが,「客観的な立場」というものは存在しません。 例えば,クリスチャンでないなら,その人はキリスト教を信じないという立場,つまり,自分自身はキリスト教を拒否するという立場で述べているのです。 このような立場は主観的であり,客観的ではありません。 なぜなら,「信じない」とか「拒否する」という心の働きは情的なものであり,価値判断だからです。 無宗教という立場も主観的です。 なぜなら,全ての宗教を拒否しているからです。 したがって,宗教に対して客観的に見ているという主張は間違っています。
イエス様は人間でもありますが,神ご自身でもあります。 したがって,個人崇拝しているのではありません。 (クリスチャンは三位一体の神を信じていて,イエス様は第二位格の神です。 キリスト論参照。)
まず,キリスト教の起源について簡単に説明しておきます。 新約聖書の4つの福音書と使徒の働き(『聖書 口語訳』では使徒行伝,『聖書 新共同訳』と『聖書 聖書協会共同訳』では使徒言行録)を読むと,イエスの弟子たち,特に使徒たちを中心に,神のことば(福音)が宣(の)べ伝えられたことが分かります。 彼らには,ユダヤ教とは異なる別の宗教を作る意図など全くなく,その必要性もありませんでした。 なぜなら,ヘブル語聖書(旧約聖書)を字義通りに解釈すれば,イエスこそ,旧約聖書で預言されていたメシアだと明確に分かるからです(旧約聖書のメシア預言とその成就する確率参照)。 つまり,イエスをメシアだと受け入れることは,ユダヤ人として当然のことだったのです。 しかし,当時の宗教的指導者たちの多くは,イエスをねたみ,イエスに理不尽な反感を抱きました。 そして,イエスをメシアだと認めず,イエスを公に拒否しました。 (この状況は今も続いています。) そして,年月が経ち,教会の中にユダヤ人信者よりも異邦人信者の数が多くなっていき,やがて,イエスをメシア(キリスト)と信じる教えは「キリスト教」と呼ばれるようになりました。 しかし,キリスト教の出発点は,ユダヤ人のヘブル語聖書(旧約聖書)にあるのです。 旧約聖書の「続き」が新約聖書なので,新約聖書を理解するには,まず旧約聖書を読んで理解する必要があります。 旧約聖書と新約聖書は「ワンセット」になっているのです。
ところが,このようなキリスト教の出発点とイスラム教(イスラーム)の出発点は大きく異なっています。 イスラム教(イスラーム)で預言者とされているムハンマドは,そもそもユダヤ教徒でもクリスチャンでもありませんでした。 したがって,キリスト教からイスラム教(イスラーム)が出て来たという主張は,間違っています。 また,当然のことですが,ユダヤ教からイスラム教(イスラーム)が出て来たわけでもありません。
「預言者」とは「神から預けられたことばを告げる者」という意味です。 そして,神は矛盾したことは言われません。 もし,ムハンマドが本当に預言者であれば,聖書(旧約聖書と新約聖書)の教えと調和したことばを語るはずです。 しかし,ムハンマドが天使ガブリエルから受けた啓示を記したと言われるクルアーン(コーラン)の内容は,聖書と明らかに矛盾しています。 例えば,イエスは神の子ではないというクルアーンの教えは,聖書の教えと完全に矛盾しています。 その証拠となる聖書箇所を引用しておきます。
さて,その6か月目に,御使いガブリエルが神から遣わされて,ガリラヤのナザレという町の一人の処女のところに来た。
この処女は,ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで,名をマリアといった。
御使いは入って来ると,マリアに言った。 「おめでとう,恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし,マリアはこのことばにひどく戸惑って,これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると,御使いは彼女に言った。 「恐れることはありません,マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって,男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。
その子は大いなる者となり,いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は,彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め,その支配に終わりはありません。」
マリアは御使いに言った。 「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」
御使いは彼女に答えた。 「聖霊があなたの上に臨み,いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ,生まれる子は聖なる者,神の子と呼ばれます。
見なさい。あなたの親類のエリサベツ,あの人もあの年になって男の子を宿しています。不妊と言われていた人なのに,今はもう6か月です。
神にとって不可能なことは何もありません。」
マリアは言った。 「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ,あなたのおことばどおり,この身になりますように。」 すると,御使いは彼女から去って行った。
(『聖書 新改訳2017』ルカの福音書 1章26~38節)
「いと高き方」とは神のことです。 天使ガブリエルは,イエスは神の子であり,ユダヤ人が待ち望んでいたメシア的王国の王,つまりメシアだと言っているのです。 また,旧約聖書の詩篇2篇や箴言30章4節にも,神の子の存在が書かれています。 このように,旧約聖書と新約聖書はつながっていて,調和しているのです。 しかし,クルアーンでは,イエスは神の子ではないと教えています。 これは矛盾です。 ある人は「聖書は改竄(かいざん)されているのだ」と主張されますが,その主張には何の根拠もありません。
私はムスリムの方々に,ユダヤ的視点から聖書を学んでいただきたいと願っています。 旧約聖書と新約聖書を字義通りに読んで理解していただければ,クルアーンの教えとは根本的に違うことが分かると思います。 (聖書を読む時に注意すべき点については,聖書理解の難しさを参照して下さい。)
では,クルアーンと聖書と,どちらが信頼できるのでしょうか。 クルアーンは,ムハンマド一人が約23年という極めて短い間に受けた啓示を記したものとされています。 一方,聖書は,約1500年に渡って,身分も職業も生きていた時代も異なる約40人の人々が記したにもかかわらず,調和していて,全体として不思議な一貫性があります。 また,聖書の預言(予言という意味も含む)は,ユダヤ民族に関する預言やイエス・キリストに関する預言など,現在に至るまで,ことごとく実現しています。 以上のことから,クルアーンと聖書と,どちらが信頼できるのかを考えていただければ幸いです。 (詳細はあるムスリムの聖書批判に対する回答~イスラームの本さんの場合~を参照して下さい。)