インターネット上で,あるムスリムの方(イスラームの本さん)が「キリスト教徒の聖書理解は間違っている」と言って,その箇所を具体的に指摘しておられます。 しかし,聖書(旧約聖書と新約聖書)を正しく読めば,その方が間違った聖書理解をされていることが分かります。 ここでは,そのムスリムの方がどのような間違いを犯しているのかを説明してみます。 (「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~や太田朝久氏の聖書批判に対する回答と重複する内容もありますので,どうぞ参考にして下さい。)
まずは,以下をご覧下さい。
「わたしたち(ムスリム)は,自分たちに下されたものを信じ,あなたがた(クリスチャン)に下されたものを信じる。
わたしたちの神(アッラー)とあなたがたの神(アッラー)は同じである。
わたしたちはかれに服従,帰依するのである。」
(聖クルアーン29.アル・アンカブート章)
このクルアーン(コーラン)に書かれている「クリスチャンに下されたもの」とは何でしょう。 ムハンマドが天使ガブリエルから啓示を受けたとされる時代(紀元7世紀前半)を考えれば,それは,39巻から成る旧約聖書と27巻から成る新約聖書,合計66巻から成る聖書だと分かります。 しかし,ムスリムの信じる神(アッラー)と,聖書に啓示されている三位一体の神は全く別の存在です。 したがって,クルアーンに書かれている「わたしたちの神(アッラー)とあなたがたの神(アッラー)は同じである」というのは単純に間違いです。
では,神が三位一体であることを当然知っている天使ガブリエルが,このような嘘の啓示を与えるでしょうか。 天使は罪を犯さないので,天使が嘘の啓示を与えることはありません。 つまり,ムハンマドに啓示を与えたと言われる「天使ガブリエル」は,本物の天使ガブリエルになりすました,にせものであることが分かります。 その本当の姿は,悪魔(サタン)か悪霊(あくれい)だと思われます。 聖書には,次のようなみことばがあります。
しかし,驚くには及びません。 サタンでさえ光の御使いに変装します。
ですから,サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても,大したことではありません。 彼らの最後は,その行いにふさわしいものとなるでしょう。
(『聖書 新改訳2017』コリント人への手紙 第二 11章14~15節)
聖書を正しく理解すれば,クルアーンには重大な間違いがあると分かります。 サタンや悪霊たちは,人間を神から遠ざけるために,巧妙に嘘をつきます。 全てが嘘ではなく,真実の中に嘘を混ぜ込んで,人間をうまくだますのです。 その最初の例が,創世記3章に書かれています。 私たち人間は,だまされやすい存在であることを覚えて,いつも謙遜になりましょう。
このムスリムの方は,三位一体の意味を理解されていません。 それが,この方が聖書やクリスチャンにつまずいてしまう最大の問題点の一つになっているように思います。 聖書の正しさについては聖書が信頼できる理由を,三位一体の意味については三位一体論を参照して下さい。 聖書の写本や翻訳に誤りがあることについては,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~の「ノアの洪水の物語は盗作だった」「FAQ」「聖書は書き換えられたか」を参照して下さい。
異文化圏のメディアではよく「イスラーム教徒は "アッラーの神" を信じている」という言い方がされているので誤解を招き易いのですが,「アッラー」とは「唯一の神」を意味するアラビア語です。
つまり,英語で「唯一神」を意味する "大文字で始まる God" と同じような意味があります。"アッラーの神" というと,"ゴッドの神" というのと同じことです。少しおかしく聞こえますね。
イエスも,神のことを「アッラー」のような発音で呼ばれていたそうです(アラム語で)。
イエスは父なる神に対して,アラム語で「アバ(אַבָּא)」と呼びかけられました(マルコ14:36)。 しかし,「アバ」というアラム語は「お父さん(Father)」という意味であって,「神(God)」という意味ではありません。 イエスが父なる神に対して「アバ」と言われたのは,私たち人間と神との関係とは違い,イエスと父なる神は特別な関係にあるからです(詩篇16篇,ヨハネの福音書参照)。 また,父なる神(第一位格の神)を権威ある存在として「アバ」と言われたのです。 第二位格の神であるイエスにとって,第一位格の神である父なる神は「わたしの父」(ヨハネ2:16など)ですが,私たち人間からすれば,父なる神は「私たちの父」です。 それゆえ,イエス様は弟子たちに「天にいます私たちの父よ」と祈りなさいと教えられたのです(マタイ6:9)。 また,イエス様は「あなたがたの父」という言い方もされています(マタイ5:16など)。 このような父と子という概念は,ヘブル的視点から理解する必要があります。 ヘブル的には,「父」とは,権威ある存在であり,力強く子を守る存在という意味です。
アブラハム,モーセ,イエス,ムハンマド,またそのほかの,神によって遣わされたすべての偉大な使徒,預言者たち(彼らの上に平安がありますように)が齎(もたら)した共通の,唯一のメッセージは「唯一の神を信ぜよ」です。
旧約聖書と新約聖書に一貫している共通のメッセージは「愛を実践せよ」です。 この愛の実践には二つあります。 一つは神への愛,もう一つは人への愛です。 神を愛することと人を愛することは車の両輪のようなもので,両方がともに重要です(マタイ22:34~40)。 この愛の実践によって,神の栄光が現されるのです。
もしもイエスに「宗教は何ですか?」と伺ったとしたら,「キリスト教」とお答えになられると思いますか?
イエスは「キリスト教」とは一言も言いませんでした。
イエス様が地上生涯(公生涯)を送られていた時には「キリスト教」という言葉がなかったので,「キリスト教」とは言われなかっただけです。
イエスは土曜日に礼拝をされ,律法を重んじ,明らかにモーセが齎(もたら)した教えに従っておられたようです。
イエス様が地上生涯を送られていた時代は,モーセの律法が機能していたからです。 モーセの律法と新約時代の戒めの関係については,モーセの十戒と新約時代の戒めの関係を参照して下さい。
では,モーセはご自分の宗教をなんという名前で呼ばれたのか,聖書にはありませんか? ユダヤ教とは言われていません。
モーセとアブラハムの神は同じでしたね。では,アブラハムはユダヤ教徒ですか? アブラハムはユダヤ人でさえありませんでした。どちらかというとアラブ人と言えるかもしれません。
モーセが生きていた時代には「ユダヤ教」という言葉がなかったので,モーセは自分の宗教を「ユダヤ教」とは言わなかったのです。 また,アブラハムが生きていた時代には「ユダヤ教徒」という言葉がなかったので,アブラハムは自分を「ユダヤ教徒」とは言わなかったのです。 ただ,それだけのことです。
アラブ人の先祖は,アブラハムとハガルの息子イシュマエルだと考えられていますので,「どちらかというとアラブ人と言えるかもしれません」とは言えません。 聖書を調べてみると,創世記14章13節には「ヘブル人アブラム」と書いてあり,アブラハムの曽孫であるヨセフは「ヘブル人」と呼ばれています(創世記39:14,39:17,41:12)。 ヨセフ自身も,自分が生まれ育った場所を「ヘブル人の国」と言っています(創世記40:15)。 また,ヨセフの兄弟たちも「ヘブル人」と書かれています(創世記43:32)。 そして,アブラハム,イサク,ヤコブの肉体的子孫は「イスラエル」と書かれています(創世記49:7,49:16,49:24,49:28など)。 また,イスラエル人であるモーセも「ヘブル人」と書かれています(出エジプト2:11)。 したがって,アブラハムはアラブ人ではなく,ヘブル人と言うのが聖書的に正しいと思います。 (聖書入門.comの「ユダヤ人,ヘブル人(ヘブライ人),イスラエル人はどう違うのですか?」も参照して下さい。)
アブラハムはカルデヤのウルに生まれました。メソポタミア,今のイラクの辺りです。
ならば,アブラハムをカルデヤ人と呼ぶのが良いのではないでしょうか。 少なくとも,アブラハムをアラブ人と呼べるような理由は一ミリもありません。 (これはイシュマエルとは無関係の議論ですので,この私の意見から,「キリスト教徒はイシュマエルを敵視している」という飛躍した論理を導き出さないで下さい。)
先に述べたように,イエスは土曜日を安息日としていました。それを教会は日曜日に変更しました。
また,多神教の思想をキリスト教に取り入れてしまいました。
ローマ・ユリウス暦を元にし,ペルシャ発祥の太陽神ミスラを祝う日,12月25日をイエスの誕生日に設定しました。
どこの教会がこのような非聖書的なことを教えているのでしょうか。 そもそも安息日は日曜日に変更されたのではありません。 モーセの律法で定められた安息日は土曜日です。 (正確には,金曜日の日没から土曜日の日没まで。) そして,モーセの律法の安息日規定は,新約時代では廃止されています。 したがって,信者が集まって礼拝を行うのは,何曜日でも構わないのです。 また,多神教の思想など,まともな教会の教理には存在しませんし,12月25日をイエス様の誕生日に設定もしていません。 クリスチャンは12月25日を「イエス様の誕生(受肉)を記念する日」としているだけであり,誕生日と定めたのではありません。 イエス様の誕生日は聖書に書いてないので,誰にも分かりません。
このムスリムの方は,「イエスの昇天後にキリスト代表団によって割礼は『廃されました』」と述べ,その根拠として,ガラテヤ5:2とローマ2:29を挙げておられます。 そして,「キリスト教徒はアブラハムやイエスよりも,パウロや教団の方が確かであるとしてしまったのです」と述べておられます。 しかし,割礼は廃止されていません。 ユダヤ人は今でも割礼を施しています。 もちろん,メシアニック・ジュー(イエスをメシアと信じるユダヤ人)も割礼を施しています。 なぜなら,割礼は,無条件契約であるアブラハム契約の「しるし」だからです。 アブラハム契約とは,神がイスラエルと結ばれた契約であり,異邦人(ユダヤ人から見た外国人のこと)と結ばれた契約ではありません。 ゆえに,そもそも異邦人は割礼を受ける必要がないのです。 (割礼やアブラハム契約については,参考文献に挙げたフルクテンバウム博士の著書『ヘブル的キリスト教入門』や『イスラエル学』を学んで下さい。 特に,アブラハム契約の学びはクリスチャンにとって,非常に重要です。 インターネット上では,中川健一牧師のメッセージ「アブラハム契約」や,聖書入門.comの「ディスペンセーショナリズムとは何か(1)~(6)」も参照して下さい。)
ガラテヤ人への手紙を読むと,パウロが「割礼を実行する必要はない」と言った相手は,イエスを信じたガラテヤ人です。 異邦人信者は割礼を受ける必要がありません。 それは,使徒15章に記録されているエルサレム会議で確認済みです。 また,ローマ2:29は根拠にもなっていません。 なぜなら,パウロは「割礼は必要ない」とは言っていないからです。
このムスリムの方はガラテヤ人への手紙を引用されているので,私もガラテヤ人への手紙から引用して,パウロが宣(の)べ伝えた福音の正しさを証明したいと思います。
兄弟たち,私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。 私が宣べ伝えた福音は,人間によるものではありません。
私はそれを人間から受けたのではなく,また教えられたのでもありません。 ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
(『聖書 新改訳2017』ガラテヤ人への手紙 1章11~12節)
ペテロに働きかけて,割礼を受けている者への使徒とされた方が,私にも働きかけて,異邦人への使徒としてくださったからでした。
(『聖書 新改訳2017』ガラテヤ人への手紙 2章8節)
これらの聖句から,パウロはイエス様から福音を啓示され,ペテロと同様に使徒としての召命を受けたことが分かります。 ペテロはユダヤ人への使徒として,パウロは異邦人への使徒として召されました。 この使徒としての権威(使徒的権威)はイエス様がお授けになったものです。 ゆえに,聖書に書かれているパウロの教えを拒否する人は,イエス様を拒否していることになります。
聖書を読んでいて,理解しにくい箇所に出会ったら,聖書の注解書を読まれることをお勧めします。 私のお薦めは,ハーベスト・タイム・ミニストリーズから発行されている『クレイ聖書解説コレクション』です。 聖書が書かれたユダヤ的背景を前提に解説されていますので,聖書を正しく理解できるようになります。 また,『新実用聖書注解』(いのちのことば社,2008年)や『新聖書辞典』(いのちのことば社,1985年)も参考になります。
また,パウロはイエスを神の子であると言い始めました。その頃まだユダヤ教徒のシナゴーグで礼拝をしていましたが,パウロがこう言った為に,神は唯一であると信じているユダヤ教徒に追い出され,自分たちの教会が必要になりました(使徒行伝9:20,13:50,17:18,21:28,ルカ2:11)。
このムスリムの方は,パウロがイエスを神の子であると言い始めたと主張されています。 しかし,四福音書を読むと,パウロ以前にイエス様を神の子だと証言した人はたくさんいたことが分かります。 その証人たちをリストアップしてみます。 (1)イエス様ご自身(マタイ26:63~64,27:43,ルカ2:49,22:70,ヨハネ10:36,11:4),(2)天使ガブリエル(ルカ1:32,1:35),(3)バプテスマのヨハネ(ヨハネ1:34),(4)ナタナエル(ヨハネ1:49),(5)イエス様の弟子たち(マタイ14:33),(6)ペテロ(マタイ16:16),(7)ベタニアのマルタ(ヨハネ11:27),(8)百人隊長(マタイ27:54),(9)父なる神(マタイ3:17,マルコ1:11,9:7,ルカ3:22,9:35),(10)悪魔(マタイ4:3,4:6,ルカ4:3,4:9),(11)悪霊ども(マタイ8:29,マルコ3:11,5:7,ルカ4:41,8:28)。 これだけの証人がいる以上,パウロが言い始めたとは到底言えません。
ヘブル語聖書(旧約聖書)で「神の子」と単数形で使われる時は,例外なくメシアを指しています。 (「神の子ら」については後述。) そのようなことは,ユダヤ人にとって常識でした。 もちろん,パウロにとっても常識でした。 パウロは,紀元1世紀最大のラビと言われているガマリエル(使徒5:34)から,パリサイ人としての厳格な教育を受けた博学な人でした(使徒22:3,23:6,26:5,26:24,ピリピ3:5)。 また,パウロは,イエス様の弟子たちを捕縛する権限を祭司長たちから与えられていた(使徒9:14)ことから,責任ある地位の人だったことが分かります。 そのパウロは回心した後,イエス様こそ神の子,メシアだと宣べ伝えました。 「神の子」=「メシア(キリスト)」であることは,使徒9:19b~22からも明白です。 つまり,パウロは自分勝手な解釈をしてイエス様を神の子だと言っていたのではなく,パウロ以前にイエス様の弟子になっていた信者たちと同じ理解に立って,イエス様を神の子(メシア)だと宣べ伝えたのです(ガラテヤ2:6)。
聖書の教える伝道の方法には,まずユダヤ人,次に異邦人という順序があります(ローマ1:16)。 パウロも,いつもユダヤ人から伝道するようにしていました。 ユダヤ人に伝道するため,そして,パウロ自身はユダヤ人としてのアイデンティティを守るために,モーセの律法で定められていた安息日(土曜日)に会堂(シナゴーグ)へ行っていたのです。 モーセの律法は廃止されましたが,ユダヤ人信者にはモーセの律法の一部を守る自由もあるのです(使徒15章,ローマ14章参照)。 そして,パウロがユダヤ人から迫害されたのは,イエス様を神の子,メシアだと宣べ伝えたからです。 (大変残念なことに,多くのユダヤ人は旧約聖書のメシア預言を知ってはいましたが,理解はしていませんでした。 そのため,イエス様を十字架につけてしまったのです。 使徒3:17,13:27。) パウロは旧約聖書を使って,イエス様がメシアであることを論証しました(使徒17:1~4)。 旧約聖書を使った理由は,当時はまだ新約聖書は書かれていなかったからです。 つまり,旧約聖書から,イエス様が神の子,メシアであることが論証できるということです。 (この詳細な論証については,旧約聖書のメシア預言とその成就する確率を参照して下さい。)
また,パウロだけでなくアポロも,旧約聖書から,イエス様がメシアであることをユダヤ人に証明しました(使徒18:24~28)。 それどころか,復活されたイエス様ご自身が,エマオ途上の二人の弟子に対して,旧約聖書からご自分がメシア(キリスト)であることを説き明かされました(ルカ24:13~35)。 このムスリムの方は,「イエスがそう言ったのならともかく」と述べておられますが,まさしくイエス様ご自身が,ご自分が旧約聖書で預言されていたメシア(キリスト)であることを説き明かされているのです。 私は,このムスリムの方と同じような主張をされる方々に,「イエス様のご人格を信頼しておられるのですか?」と問うてみたいと思います。 もし「信頼しています」とお答えになられるのなら,イエス様はメシアであること,つまり,イエス様は神でもあり人でもあるお方で,私たち人間を罪から贖(あがな)い,神の怒りから解放して下さる唯一のお方であることを受け入れなければなりません。 もし「信頼しています」と答えておきながら,「聖書は改竄(かいざん)されています」とか「イエスは神ではありません」と主張されるのなら,本当はイエス様のご人格を信頼しておられないのです。 イエス様のご人格を信頼していないということは,イエス様を敬愛していないということです。 イエスを敬愛していると言いながら,聖書は改竄されていて,イエスは神ではないと主張するのは,ただの論理矛盾です。 事実,イエス様は「聖書の写本や70人訳聖書は改竄されている」とは一度も言われませんでした。 また,イエス様はナザレの会堂で,手渡された預言者イザヤの書(実際には写本だと思います)をそのまま朗読されました(ルカ4:16~21)。 イエス様のこの行為から分かることは,写本や翻訳された聖書に記されている教えは,そのまま信頼して良いということです。 重要な教理とは関係のない些末な問題を気にして頭を悩ます必要はないのです。 ここで,マタイ5:17~19を根拠にして反論される方々がおられるかもしれませんので,一応説明しておきます。 マタイ5:17~19でイエス様が言われていることは,ヘブル語聖書の預言(ヘブル語聖書で教えられていること)は全て実現するということです。 ヘブル語聖書(旧約聖書)の教理も新約聖書の教理も改竄されていない以上,私たちは手元にある聖書を安心して読むことができるのです。
教会は,シナゴーグから追い出されたから必要になったのではありません。 そもそも教会(ギリシア語で「エクレーシアー(ἐκκλησία)」)とは,使徒2章の五旬節の日から携挙の時までに救われる全ての信者の群れのことです。 つまり,教会はパウロが回心する前から存在していたのです。 今,クリスチャンが集う教会堂という建物は,当時はまだ存在しなかったので,最初は「家の教会(home church)」として集っていました(使徒2:46,4:31,5:42,8:1,8:3)。 信者はそれぞれ,誰かの家に集まって,祈りをし,交わりをしていたのです。 したがって,パウロが原因で,教会が必要になったのではありません。 ちなみに,ユダヤ教徒と決定的に分裂するきっかけを作った人物はパウロではなく,バル・コクバです。
三位一体という言葉は聖書になく,イエスは自分は神であるとは一度も言いませんでした。
このムスリムの方は,間違いなく聖書の三位一体という神概念の意味を理解しておられません。 簡単に述べるだけにしますが,父・子・聖霊の間には上下関係はありませんが,序列はあります。 ゆえに,必ず父・子・聖霊という順序で説明されるのです。 (誤解のないように補足すると,例えば,子・父・聖霊とは言わないということです。) 子なる神は父なる神に対してへりくだっておられ,聖霊は子なる神に対してへりくだっておられるのです。 そして,父・子・聖霊の間には完全な愛の交わりがあるので,三位一体の神はひとりぼっちの孤独な存在ではなく,欠けているものも必要なものも,何一つないのです。 神は三位一体だからこそ,完全なのです(マタイ5:48)。 このことが理解できれば,おかしな理屈に惑わされることはなくなると思います。
では,神が唯一で,人格が一つしかないとどうなるか,以下に説明します。 ムスリムの信じる神(アッラー)は,永遠の昔から,ひとりぼっちの孤独な存在でした。 愛の対象が存在しなかったからです。 愛というのは,対象があって初めて成り立つものです。 つまり,最初からアッラーは愛を知らないのです。 愛を知らないアッラーが,本当に「慈悲あまねく慈愛深き方」だと言えるでしょうか。 アッラーに愛があったとしても,それはただの自己愛にすぎません。 クルアーンは見事に矛盾しています。
参照箇所の「善いのはわたし(イエス)ではなく神」の項目で,ルカ18:18~19とマタイ19:16~17が引用されていますが,これらは聖書が書き換えられた証拠にはなりませんし,前後の文脈を完全に無視して理解しています。 聖書のことばに相違点があっても,意味が同じならそれで良いのです。 この聖書箇所で使われている「良い(尊い)」という意味のギリシア語「アガソス(ἀγαθός)」は,「内的な性質」を表します。 ユダヤ教の習慣では,人間に対して「アガソス」という言葉を用いることはありません。 そこでイエス様は,「良い方は神だけである」と答えられました(マルコ10:18,ルカ18:19)。 このイエス様のことばから,「イエスは自分が神であることを否定した」と主張するのは間違いです。 なぜなら,イエス様は「良い(尊い)のはわたしではない」とは一言も言われていないからです。 そして,もしこの青年が「あなたこそメシアであり,神ご自身です」と告白していたら,彼は永遠のいのちを得ていたのです。 しかし,彼は沈黙していたので,イエス様は話題をモーセの律法に変え,この青年の問題点を彼自身に悟らせたのです。 これがこの聖書箇所の正しい解釈です。 (参考文献:中川健一著『クレイ聖書解説コレクション「マタイの福音書」』紙版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年,246~247頁。) また,この箇所は,マタイ12章のベルゼブル論争の後の話であることにも注意して下さい。 イエス様は意地悪をしているわけではなく,この青年から信仰告白を引き出そうとしておられるので,誤解のないように。
また,「わたしを見た者は,父を見たのである」(ヨハネ14:9)というみことばと,「そのみ声を聞いたこともなく,そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ5:37)というみことばは矛盾しているのではないかと言っておられますが,矛盾でも何でもありません。 「わたしを見た者は,父を見たのである」とは,父なる神のご人格のことを意味していて,イエス様の弟子である使徒ピリポに言われたことばです。 「そのみ声を聞いたこともなく,そのみ姿を見たこともない」ということばは,イエス様を迫害し始めたユダヤ人たちに言われたもので,彼らは不信仰のために,父なる神のみ声を聞いたこともなく,父なる神のみ姿を見たこともない,と言われたのです。 38節に書いてあるとおりです。 したがって,両者は矛盾でも何でもありません。
参照箇所の「言は肉体となった」の項目を読むと,やはり三位一体論を全く理解されていないことが分かります。 ヨハネの福音書1章1~18節を普通に素直に読めば,1節の「ことば」は,神であり人となられたイエス・キリストであるという結論しか出て来ません。 また,「ことばは神であった」という日本語訳は,ギリシア語原文の直訳で,きわめて正確な翻訳です。 そして,ヨハネの福音書も信頼できる神のことばです(ヨハネ21:24)。 なぜなら,ヨハネの福音書の記録は共観福音書(マタイ,マルコ,ルカ)の記録と見事に調和しているからです。 (この詳細は,中川健一牧師による『メシアの生涯』シリーズ参照。)
参照箇所の「イエスは神のひとり子?」の項目で,創世記6:2の「神の子ら」について言及されていますので,簡単に説明しておきます。 「神の子ら」とは「神の創造によって生まれた者」を総称する用語です。 ヘブル語聖書(旧約聖書)での表現「ベネー・ハ・エロヒーム(בְּנֵי הָאֱלֹהִים)」(創世記6:2,ヨブ1:6,2:1),「ベネー・エロヒーム(בְּנֵי אֱלֹהִים)」(ヨブ38:7)は常に御使い(みつかい)を指します。 (「ハ(הַ)」は,英語のtheに相当する,ヘブル語の定冠詞です。) このヘブル語は,天使にも堕天使にも使われています。 新約聖書では意味範囲が広がっていて,アダムも信者も神の子と呼ばれています(ルカ3:38,ヨハネ1:12)。 それは,アダムは神の創造によって生まれ,信者も神によって生まれたと言われているからです(ガラテヤ6:15)。 (参考文献:アーノルド・フルクテンバウム著/佐野剛史訳『メシア的キリスト論―旧約聖書のメシア預言で読み解くイエスの生涯―』紙版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年,187頁。) また,他にも具体的な聖書箇所を挙げておられますので,それらも説明しておきます。 (1)出エジプト4:22では,主語が「イスラエル」なので,「わたしの子」はイスラエルのことです。 (2)ヨブ38:7の「神の子たち」は,文脈から天使だと分かります。 (3)詩篇2:7の「わたしの子」は,文脈から考えて,メシアのことです。 このムスリムの方はダビデのことだと考えておられますが,ダビデが全世界を統治したことはありませんので,詩篇2:7~12はメシアについて預言していると考えられます。 つまり,7節と12節に出て来る「神の子」はメシアを指していることになります。 ちなみに,詩篇2篇には作者名は書いてありませんが,使徒4:25から,ダビデの作だと分かります。 (4)詩篇29:1の「神の子ら」(あるいは「力ある者の子ら」)のヘブル語は「ベネー・エリム(בְּנֵי אֵלִים)」なので,御使いではなく,人間のことだと思います。 (5)マタイ5:9の「神の子ども」(英語訳では「sons of God」)は信者のことです。 また,箴言30:4では,神に子がいることが啓示されていますが,その名が啓示されたのは新約聖書に入ってからです。 今では,その名は「イエス」と啓示されていて,私たち人間が救われるべき名は他にはありません(使徒4:12,ヨハネ14:6)。 以上のことから,ヘブル語聖書(旧約聖書)での「神の子」とはメシアのこと,つまりイエスだと言えます。
参照箇所の「イエスの奇跡」の項目では,「他の預言者たちも,彼らが神の預言者であることを証明するために,奇跡を起こす力を神から授かっていました」と述べていますが,イエス様が行われた数々の奇跡は,イエス様がメシアであること(イエス様のメシア性)を証明するためのものであり,単に預言者であることを証明するためのものではありませんでした。 11人の使徒たちとともに,ペテロが語ったとおりです。
「イスラエルの皆さん,これらのことばを聞いてください。 神はナザレ人イエスによって,あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い,それによって,あなたがたにこの方を証しされました。 それは,あなたがた自身がご承知のことです。」
(『聖書 新改訳2017』使徒の働き 2章22節)
イエス様が行われた「力あるわざ」と「不思議」と「しるし」を一人で行った預言者は誰もいませんでした。 特に,当時のパリサイ的ユダヤ教で,メシアにしかできないと言われていた三つの奇跡を,イエス様はお一人で全て行われました。 その三つの奇跡とは,(1)ユダヤ人のツァラアト患者の癒やし(マタイ8:2~4,ルカ17:11~19),(2)生まれつき目の見えない人の癒やし(ヨハネ9:1~38),(3)口のきけない人からの,悪霊の追い出し(マタイ9:32~33,マタイ12:22~23)です。 (1)について少し説明しておきます。 ①民数記12章で,モーセの姉ミリアムがツァラアトに冒され,そして癒やされましたが,これはモーセの律法が完成する前の出来事です。 ②預言者エリシャはアラム人ナアマンのツァラアトを癒やしました(2列王記5:1~14)が,ナアマンは異邦人でした。 ③モーセの律法の中(レビ記13~14章)に,ツァラアトについての教えが詳細に記されているにもかかわらず,モーセの律法の完成以降,ツァラアトが癒やされたユダヤ人の記録は存在しませんでした。 それで,ユダヤ人のツァラアト患者を癒やせるのはメシアしかいないと考えられたのです。
また,当然のことですが,ユダヤ人はメシアを,単なる預言者の一人とは考えていませんでした。 それは,例えば,ヨハネ9章を読めば分かります。 ヨハネ9:22によれば,「ユダヤ人たちは,イエスをキリストであると告白する者がいれば,会堂から追放すると決めていた」とあります。 生まれつき盲目だった男性がイエスのことを「あの方は預言者です」(ヨハネ9:17)と告白した時点では,この男性は会堂から追放されていません。 なぜなら,イエスをメシア(キリスト)だと告白したわけではなかったからです。 つまり,ヨハネ9章から分かることは,イエスに対して預言者だと言うのか,それともメシアだと言うのかは,全く意味が違うということです。
では,メシアとはどのようなお方なのでしょうか。 イエス様ご自身が次のように言われています。
「あなたがたは,聖書の中に永遠のいのちがあると思って,聖書を調べています。 その聖書は,わたしについて証ししているものです。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 5章39節)
この箇所での聖書とは,旧約聖書のことです。 旧約聖書は,イエス様がメシアであることを証ししているのです。 そして,メシアが神であり人であることは,旧約聖書を調べれば分かるようになっているのです。 以下の箇所からも,そのことが分かります。
兄弟たちはすぐ,夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。 そこに着くと,二人はユダヤ人の会堂に入って行った。
この町のユダヤ人は,テサロニケにいる者たちよりも素直で,非常に熱心にみことばを受け入れ,はたしてそのとおりかどうか,毎日聖書を調べた。
それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。 また,ギリシアの貴婦人たち,そして男たちも少なからず信じた。
(『聖書 新改訳2017』使徒の働き 17章10~12節)
ベレアのユダヤ人たちは「毎日聖書を調べた」とありますが,具体的にどのような箇所を調べたのでしょうか。 パウロとシラスが宣べ伝えたのは,イエスがメシア(キリスト)であるという福音です。 そのことは,この前の箇所(使徒17:1~9)から分かります。 ということは,ベレアのユダヤ人たちが調べた聖書箇所は,間違いなく旧約聖書のメシア預言です。 例えば,彼らは,イザヤ7:14,イザヤ9:6~7,エレミヤ23:5~6,ミカ5:2,ゼカリヤ12:10,ゼカリヤ13:7,詩篇80:17,詩篇110:1~7といった箇所を調べたと考えられます。 その結果,彼らは,イエスがメシア(キリスト)であることを信じたのです。 これらの聖書箇所は,メシアが神でもあり人でもあることを示しています。 また,メシアが神の子であることを示す聖書箇所は,詩篇2:7~12,箴言30:4です。 パウロとシラスがこれらの箇所を示して,彼らに教えたのではないかと思います。 このベレアのユダヤ人たちと同様に,私たちクリスチャンは,イエス様がメシアであり,神の子であり,神であり人であるお方だと信じているのです。 この信仰は,聖書から導き出された確実な結論なのです。 (旧約聖書のメシア預言については,参考文献に挙げたフルクテンバウム博士の著書『メシア的キリスト論』を学んで下さい。 一点の曇りもないほどに,イエス様こそ旧約聖書で預言されていたメシアだと分かります。)
父母どころか,初めもなく終わりもない人が神以外にいました。この方はメルキゼデク,サレムの王であり,いと高き神の祭司とのことです(ヘブライ人への手紙 / 7章 1節)。
このムスリムの方は,ヘブル人への手紙の文脈を完全に無視して述べておられます。 「父もなく,母もなく,系図もなく,生涯の初めもなく,いのちの終わりもなく」というのは,聖書に記録されていないという意味です。 そして,モーセの律法で定められたレビ系祭司との対比で,キリストがメルキゼデク系祭司であることを,ヘブル人への手紙の著者は説明しているのです。 ヘブル人への手紙は,ユダヤ人がユダヤ人信者に向けて書いているので,旧約聖書の知識に乏しい日本人が理解するのは難しいですが,クリスチャンがこの書を学ぶことはとても有益だと思います。
「神の子」と言った悪霊をイエスは戒めました。
このムスリムの方は,ルカ4:41を引用されて,このように主張されておられますが,この箇所は,イエス様が神の子ではないという主張の根拠にはなり得ません。 むしろ,イエス様がキリスト(メシア)であることの証拠の一つです。
聖霊は神でありイエスですか?
このような質問をされていること自体,クリスチャンが信じる三位一体を理解されていない証拠です。
マリヤがイエスを身篭ったことについて,マタイは「聖霊」,ルカは「天使ガブリエル」と言っています。
つまり,聖霊は天使ガブリエルです。
それでは,天使ガブリエルは神ですか?
このムスリムの方は,ルカ1:26~27を引用して「ルカは『天使ガブリエル』」と述べておられますが,マリアがイエスを身ごもることについてのルカの箇所は,1:35~37が正解です。 つまり,ルカの福音書からも,マリアは聖霊(せいれい)によってイエスを身ごもったことが分かります。 (また,「天使ガブリエルが,神の造ったイエスの魂を運んだのです」と主張される方がおられるようですが,そのような話は聖書のどこにも書いてありませんし,そのように読み取ることもできません。)
参照箇所の「聖書がムハンマド(saw)を預言」の項目で,「どうしてイエスは『わたしが去って行かなければ,あなたがたのところに助け主はこないであろう』と言うのですか?」とありますが,それが神のご計画だからです。 ヨハネ16:7でイエス様が言われたことの意味は,イエス様が昇天された後,信者の「助け主」として,聖霊(せいれい)が賜物として与えられるという意味です。 つまり,聖霊が信者の心の中にいつまでも住まわれるのです。 これを「聖霊の内住(ないじゅう)」と言います。 三位一体の神は遍在ですが,無理矢理,人の心の中に住まうお方ではありません。 神のご計画では,新約時代にイエス様を信じた人は,信じた瞬間に聖霊を賜物として与えられています。 旧約時代には聖霊の満たしはありましたが,聖霊の内住はありませんでした。 この違いを理解するためには,聖書に啓示されている7つのディスペンセーションを理解するのが近道です。 ディスペンセーションについては,聖書入門.comの「ディスペンセーショナリズムとは何か(1)~(6)」を参照して下さい。
聖書で繰り返し出てくる「御霊」「霊」「聖霊」,この言葉はわかりにくい言葉です。
この「霊」は,英語の聖書を見ると,「ゴースト」だったり「スピリット」だったりします
同じ版の中でも,「ゴースト」と「スピリット」が混在しています。
ギリシャ語の聖書で使われている言葉は,「スピリット」の意味だけしかありません。
(ギリシャ語の先生に,聖書でのこの語句がギリシャ語でどうなっているのか聞きました。)
日本語訳聖書で「霊」とか「聖霊(せいれい)」とか「御霊(みたま)」と訳されているギリシア語は「プネウマ(πνεῦμα)」です。 この語の意味をGingrichのShorter Lexicon of the Greek New Testamentで調べると,「spirit」だけでなく「ghost」(ルカ24:37,24:39)も書いてあります。 ギリシア語の原文を翻訳する時は,文脈から,単なる「霊」なのか,それとも「聖霊」なのかが分かりますので,私たちは安心して日本語訳聖書を読むことができるのです。
このムスリムの方は,1ヨハネ4:1を引用して,「ここで『霊』と『預言者』は同義語です」と述べ,続く2節から,「『神の霊』=『神の預言者』ですね」と結論づけておられます。 しかし,1ヨハネ4:1~12の文脈から,この箇所での「霊」は,単に生きている人間の構成要素である「霊」(ヤコブ2:26)を意味していると解釈すべきです。 「預言者」を意味するギリシア語は「プネウマ(πνεῦμα)」ではなく,「プロフェーテース(προφήτης)」と言います。 文脈から意味を理解することは非常に重要です。
ここで,ヨハネ14:16に書かれている「もう一人の助け主」について,説明しておきたいと思います。 まず,この聖句を以下に引用します。
「そしてわたしが父にお願いすると,父はもう一人の助け主をお与えくださり,その助け主がいつまでも,あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの福音書 14章16節)
この「もう一人の助け主」は「真理の御霊」=「聖霊」のことです。 そう断言できる理由を説明します。 (1)ここでイエス様は,ご自身とは別の「もう一人の助け主」が弟子たちに与えられると言われました。 ということは,イエス様ご自身も「助け主」だという前提で語られていることが分かります。 ここで「もう一人の」と訳されているギリシア語は「アロス(ἄλλος)」で,「同質」のものに使われます。 つまり,「もう一人の助け主」はイエス様と同質の存在,すなわち神であると,イエス様は言われているのです。 (2)「別の」という意味のギリシア語に「ヘテロス(ἕτερος)」がありますが,この語は「異質」なものに使われます。 もし「もう一人の助け主」が人間なら「ヘテロス(ἕτερος)」が使われるはずですが,実際には「アロス(ἄλλος)」が使われています。 したがって,ヨハネ14:16に書かれている「もう一人の助け主」とは,人間ではなく,真理の御霊である聖霊なる神を意味していることになります。 (3)ヨハネ14:26,ヨハネ15:26の「助け主」も,文脈から,聖霊なる神のことです。 (中川健一牧師のメッセージ「メシアの生涯(179)―二階部屋での説教(2)―」参照。)
バルナバはこのような人でしたが,彼の書いた『バルナバの福音書』は教会に認められていません。そこには「イエスは神の息子ではなく,預言者である。パウロは『惑わされている者』である」と書かれているためです。イエスは十字架にかけられたのではなく,生きて天に上げられたとも言っています。
バルナバ福音書は,バルナバになりすました後代の誰かが,悪意を持って勝手に書いたものです。 それゆえ,その内容は聖書の正典を模倣して書かれていて,明らかに歴史的事実と異なる記述も含まれているのです。 そして,バルナバ福音書の内容は,聖書の正典が教える教理と矛盾しているので,教会に認められないのです。 また,写本の数が少なすぎて,信憑性がありません。 つまり,バルナバ福音書は正典として考察する価値のない書だと言うことです。
また,このムスリムの方は,まずマタイ21:43を引用し,次に申命記18:18を引用して,聖書がムハンマドを預言していると主張されています。 しかし,この論理はどう考えても成り立ちません。 神が人に啓示された時間的順序は,申命記が先で,マタイの福音書が後です。 しかも,引用された聖句の意味は,全く別のことを意味しています。
(1)申命記18章18節はムスリムの方々にとって非常に重要だと思いますので,この聖書箇所を正しく理解するために,15節から引用しておきます。
あなたの神,主はあなたのうちから,あなたの同胞の中から,私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。 あなたがたはその人に聞き従わなければならない。
これは,あなたがホレブでのあの集まりの日に,あなたの神,主に求めて,「私の神,主の御声(みこえ)は二度と聞きたくありません。 この大きな火はもう見たくありません。 私は死にたくありません」と言ったことによるものである。
それで主は私に言われた。 「彼らの言ったことはもっともだ。
わたしは彼らの同胞のうちから,彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして,彼の口にわたしのことばを授ける。 彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」
(『聖書 新改訳2017』申命記 18章15~18節)
結論から言うと,申命記18:15~18で預言されている「モーセのような一人の預言者」とは,ムハンマドではあり得ません。 その理由を詳しく説明します。 ①まず,この箇所の文脈を見てみましょう。 申命記全体の文脈は,これからカナンの地で生活するイスラエルの民のために,モーセが重要なメッセージを語っているというものです。 18章15~18節も,その文脈の中で語られたメッセージです。 つまり,語り手はモーセで,聞き手はイスラエルの民です。 さて,それを踏まえると,15節の「あなたのうちから,あなたの同胞の中から」の「あなた」とは,イスラエルの民のことです。 ちなみに,「あなたのうちから」と「あなたの同胞の中から」とは同じ意味です。 つまり,15節で言われていることは,イスラエルの民の中から「モーセのような一人の預言者」が起こされるということです。 ということは,18節の「彼らの同胞」も「彼ら」も,イスラエルの民のことだと分かります。 つまり,イスラエルの神である主は,イスラエルの民の中から,イスラエルの民のために「モーセのような一人の預言者」を起こされると言っておられるのです。 そして,ムハンマドはイスラエル人(アブラハム,イサク,ヤコブの肉体的子孫)ではないので,「モーセのような一人の預言者」ではあり得ないのです。 イスラエル人の父祖は,アブラハム,イサク,ヤコブです(申命記6:10,9:5,29:13,30:20など)。 ②また,あるムスリムの方々は申命記18:18を根拠にして,モーセとムハンマドには多くの共通点があるが,モーセとイエスには共通点が見られないと主張して,「モーセのような一人の預言者」とはイエスではなくムハンマドだと主張しておられます。 しかし,この箇所で聖書が教えていることは,16~18節に書いてあるとおり,「モーセのような一人の預言者」は,モーセと同様に,神とイスラエルの仲介者となるということです。 また,民数記12:5~8を読むと,モーセが他の預言者とは違う特別な立場にあることが分かります。 エリヤやイザヤのような偉大な預言者に対しても,神はご自分を直接啓示されずに,幻や夢によって語りかけられました。 しかし,モーセに対しては,神は直接語りかけられました。 つまり,「モーセのような一人の預言者」とは,ただの預言者ではなく,神と「口と口で語り」,主のありのままの姿(シャカイナ・グローリー)を見る預言者なのです。 ムハンマドは神から直接啓示を受けたのではなく,天使ガブリエルから啓示を受けたとされていて,シャカイナ・グローリー(目に見える形で現れた主の栄光)も見ていませんので,「モーセのような一人の預言者」には該当しません。 ③また,あるムスリムの方々は,申命記18:18の「モーセのような一人の預言者」はユダヤ人の兄弟であるイシュマエルの子孫(アラブ人)から出ると主張されています。 そして,アラブ人とユダヤ人が兄弟である聖書的根拠として創世記16:12や創世記25:18を挙げておられますが,これらの聖書箇所は別のことを教えています。 (1)創世記16:12にはこう書いてあります。 「彼(イシュマエル)は,野生のろばのような人となり,その手は,すべての人に逆らい,すべての人の手も,彼に逆らう。彼は,すべての兄弟に敵対して住む」(『聖書 新改訳2017』)。 この箇所の「野生のろばのような人となる」とは,批判的な言葉ではなく,イシュマエルは荒野(あらの)を渡り歩く遊牧民となるという意味です。 「その手は,すべての人に逆らい」とは,荒野を移動中に他民族と遭遇した時には,攻撃的な性格を示すという意味です。 「すべての人の手も,彼に逆らう」とは,攻撃されたほうが,報復攻撃をしかけてくるということです。 「彼は,すべての兄弟に敵対して住む」とは,イシュマエルは弟のイサクやケトラの6人の息子たち(創世記25:1~2)と隣り合って住むが,平和的にではなく,敵対心を持って住むという意味でしょう。 (参考文献:中川健一著『クレイ聖書解説コレクション「創世記」』紙版第2版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年,196~197頁。) つまり,ここでの「兄弟」とは,第一義的にはアブラハムを父親とする息子たちのことを指しています。 また,この敵対関係は,1948年のイスラエル建国以来,アラブ人とユダヤ人の間で今日に至るまで続いています。 実に悲しいことです。 (2)創世記25:18には「彼ら(イシュマエルの子孫)は,すべての兄弟たちに敵対していた」(『聖書 新改訳2017』)とあります。 この箇所の「すべての兄弟たち」とは,創世記25:13~15に列挙されているイシュマエルの子孫のことです。 つまり,イシュマエルの子孫は互いに敵対して住んでいたという意味です。 ここでの「兄弟」とは,第一義的にはイシュマエルを父親とする息子たちのことです。 創世記25:18は,『聖書 聖書協会共同訳』のように「イシュマエルはすべての兄弟と対立して暮らした」と訳すこともできますが,創世記25:12~18はイシュマエルの子らについての記述となっていますので,『聖書 新改訳2017』の訳の方が分かりやすいと思います。 (3)ヘブル語聖書では,創世記16:12での「兄弟」も創世記25:18での「兄弟」も,申命記18:15と申命記18:18での「同胞」も,兄弟を意味するヘブル語「アフ(אָח)」が使われています。 しかし,創世記16:12と創世記25:18では「同じ親から生まれた息子」を意味しているのに対し,申命記18:15と申命記18:18では「同国人の兄弟」を意味しています。 つまり,創世記16:12と創世記25:18で使われている「兄弟」と,申命記18:15と申命記18:18で使われている「兄弟」は同じ意味ではないのです。 (事実,「アフ(אָח)」というヘブル語には複数の意味があります。) そして,アラブ人はイスラエル人(ユダヤ人)の同国人ではありませんので,創世記16:12と創世記25:18から,申命記18:18の「兄弟」を,ユダヤ人の兄弟であるアラブ人のことだと主張することはできません。 (アラブ人がイスラエルにとって同国人でないことは,列王記第一8:41の「イスラエルの者でない異国人」ということばや,オバデヤ書11節の記録の詳細が歴代誌第二21:16~17に書かれていることからも分かります。)
(2)マタイの福音書21章43節は,神の国(メシア的王国)は,イエスと同時代のユダヤ人たちからは取り去られ,後の時代のユダヤ人たち(特に,大患難時代を生き延びるユダヤ人たち)に与えられるという預言だと思います。 ギリシア語の原文と辞書を調べてみましたが,「エスノス(ἔθνος)」というギリシア語を「異邦人」と訳している『聖書 口語訳』は正しいとは思えません。 英語訳(ESV)のように,「a people」と訳すのが正しいと思います。 (『聖書 文語訳』では「國人(くにびと)」,『聖書 新共同訳』では「民族」,『聖書 新改訳2017』と『聖書 聖書協会共同訳』では「民」と訳しています。) なぜなら,マタイ21:41の「別の農夫たち」の「別の」は,原文では「アロス(ἄλλος)」というギリシア語が使われているからです。 (並行箇所のマルコ12:9,ルカ20:16でも同様です。) もし「異邦人」なら,「ヘテロス(ἕτερος)」というギリシア語が使われているはずだと思います。 というのも,「ヘテロス(ἕτερος)」の1番目の用法は「(本来二つだけあるものの一方,またその一方を挙げたのち)別の」だからです。 そして,聖書によると,全ての人はユダヤ人か異邦人のどちらかに分類されるので,もし「別の農夫たち」を「異邦人」だと解釈するなら,「アロス(ἄλλος)」よりも「ヘテロス(ἕτερος)」のほうが,ふさわしいはずだからです。
このムスリムの方は,マタイ15:24とマタイ1:21を根拠にして「イエスはユダヤ人のみへ遣わされました」と主張されています。 しかし,これはイエス様が公生涯(使徒1:21~22参照)を歩まれていた時の,父なる神のご計画です。 福音はまずユダヤ人に,次に異邦人に届けられるというのが神のご計画です。 そしてイエス様は,神のご計画である旧約聖書のメシア預言を成就するために,ユダヤ人に対して御国(みくに)の福音を宣べ伝えられました。 しかし,イエス様の役割はそれだけではありませんでした。 イエス様は,ご自分には異邦人を導く役割もあることをご存じでした。 ヨハネ10:16がその証拠です。 ヨハネ10:16における「この囲いに属さないほかの羊たち」とは異邦人信者のことです。 イエス様は十字架上で死なれましたが,三日目に復活され,40日後に昇天され,神の右の座に着座されました。 そして,今も生きて働いておられます。 そのイエス様の働きは使徒の働きに記録されていて,現在も教会を通して続いているのです。 これが正しい聖書の教えです。
イエスはユダヤ人に遣わされた最後の預言者,ユダヤ人への最後の警告者だったのです
結果,先に挙げたイエスの預言どおり,
神はユダヤ人に見切りをつけ,異なる民の中へ次の預言者を遣わすことになりました
この論理も成り立ちません。 マタイ21:43のどこにも「次の預言者を遣わす」とは書いてありませんし,神はユダヤ人に見切りをつけられたのではありません。 アブラハム契約があるからです。 ユダヤ人が不信仰な道を歩んでも,アブラハム契約のゆえに,ユダヤ人が神から退けられることはないのです。 その証拠の一つとしてレビ記26章がありますが,これは長い章なので,一部分だけ引用します。
「あなたがたは国々の間で滅び,あなたがたの敵の地はあなたがたを食い尽くす。
あなたがたのうちの生き残る者も,敵の地で自分の咎(とが)のために朽ち果てる。 さらに先祖の咎のために朽ち果てる。
彼らは,自分たちの咎と先祖の咎を,つまり,わたしの信頼を裏切って,わたしに逆らって歩んだことを告白するが,
このわたしが彼らに逆らって歩み,彼らを敵の国へ送り込むのである。 もしそのとき,彼らの無割礼の心がへりくだるなら,そのとき自分たちの咎の償いをすることになる。
わたしはヤコブとのわたしの契約を思い起こす。 またイサクとのわたしの契約を,さらにはアブラハムとのわたしの契約をも思い起こす。 わたしはその地を思い起こす。
その地は彼らに捨て置かれ,彼らがいなくなって荒れ果てている間,安息を享受(きょうじゅ)する。 彼らは自分たちの咎の償いをすることになるが,それはただ,彼ら自身がわたしの定めを退け,わたしの掟(おきて)を嫌って退けたゆえである。
それにもかかわらず,彼らがその敵の国にいるとき,わたしは彼らを退けず,彼らを嫌って絶ち滅ぼさず,彼らとのわたしの契約を破ることはない。 わたしが彼らの神,主だからである。
わたしは彼らのために,彼らの父祖たちと結んだ契約を思い起こす。 わたしは彼らを国々の目の前で,彼らの神となるためにエジプトの地から導き出したのだ。 わたしは主である。」
以上は,主がシナイ山でモーセを通して,ご自分とイスラエルの子らとの間に立てられた,掟と定めとおしえである。
(『聖書 新改訳2017』レビ記 26章38~46節)
また,アブラハム契約が今も有効な「永遠の契約」である証拠の一つとして,詩篇105篇8~11節があります。
主はご自分の契約を とこしえに覚えておられる。
命じられたみことばを 千代(せんだい)までも。
それはアブラハムと結んだ契約
イサクへの誓い。
主はそれを ヤコブへの定めとして立てられた。
イスラエルへの 永遠の契約として。
そのとき主は言われた。
「わたしはあなたにカナンの地を与える。
あなたがたへのゆずり(あるいは「相続」)の地として。」
(『聖書 新改訳2017』詩篇 105篇8~11節)
この詩篇105篇の1~15節は1歴代誌16章8~22節に引用されています。 作者は書いてありませんが,ダビデの作である可能性は充分考えられると思います。 この詩篇に書いてあるとおり,アブラハム契約は「永遠の契約」であり,今も有効な契約なのです。 したがって,神はユダヤ人に見切りをつけられたという考えは間違っています。
ムハンマドは全人類へ遣わされました
このムスリムの方は,ムハンマドが聖書で預言されていたことを証明するために,ハバクク3:3と申命記33:2も引用しておられます。 しかし,これらの箇所もムハンマドとは何の関係もありません。 (1)ハバクク3:3は,メシア再臨の預言です。 メシアは「神」であり「聖なる方」です。 どう読んでも,ムハンマドは無関係です。 (2)申命記33:2は,モーセが,シナイ山で律法を授けられた時からの様子を回顧して,主(ヤハウェ)を賛美しているのです。 翻訳上の相違はありますが,それ以上の意味はありません。 何より,主語は主(ヤハウェ)です。 どう読んでも,ムハンマドは無関係です。
御使も子も,神とは違います。父だけがすべてをご存知です。
引用されたマルコ13:32の「その日,その時」とは,文脈上,携挙が起こる日時を指しています。 父なる神は,天使だけでなく,御子イエスにも,携挙の時を知らせないことに決めておられます。 しかし,父なる神が全知全能であり,神が三位一体であるなら,神は全知全能であると言えます。 なぜなら,父なる神は神だからです。
三位一体は,イエスが天に召されて300-400年後に会議で決められました。
三位一体の教理は,旧約聖書に啓示されていて,新約聖書で,より明確に示されています。 その三位一体の教理を信じる信仰は,最初は単純なものでした。 しかし,異端や異教から信仰を守るために,教会会議で定義を確立する必要が出て来ました。 そのようにして,三位一体の教理は確立されたのです。 よく聞く話は,教会が後になってから会議で勝手に決めたのだという主張だと思います。 しかし,それは間違いです。 三位一体の信仰は,会議で確立される前からあったのです。 それも,聖書の中に三位一体という神概念がありました。 クリスチャンは,その聖書を神のことばとして信じているので,三位一体も信じているのです。 クリスチャンが三位一体を信じる根拠は,聖書です。
参照箇所の「神につかわされたイエス」の項目で,引用されている聖書箇所はルカ4:16~19の間違いです。 そして,この文脈はルカ4:16~21までを見る必要があります。 まず確認すべきは,イエス様はイザヤ61:1~2aに書かれていることを「朗読された」のであって,自分勝手な解釈を言われたのではありません。 二番目に,「それでは,朗読されたことばは,イザヤ書のことばと違うではないか」と反論されるかもしれませんが,意味が同じならそれで良いのです。 日本語訳を見ても分かりますが,新約聖書における旧約聖書からの引用聖句で,一字一句全く同じものはほとんどありません。 そもそも旧約聖書と新約聖書では言語が異なるので,全く同じ引用など存在しないことは言うまでもないと思います。 ですから,意味が同じならそれで良いのです。 それは改竄とは違いますので,誤解のないようにお願い致します。 そして,このムスリムの方の最大の問題点の一つは,三位一体の意味を少しも理解されていないということです。 ですから,述べておられる批判は的外れなものばかりです。 18節の「主はわたしに油を注ぎ」は,バプテスマを受けられた時(マタイ3:16)に成就しました。 また,「司祭」ではなく「祭司」です。 これを些細なミスだと思われるかもしれませんが,まともに聖書を読んでいれば,このようなミスは絶対にしません。 また,イエス様は「使徒」ではありません。 聖書が教える「使徒(ギリシア語で「アポストロス(ἀπόστολος)」)」とは,イエス・キリストが「使徒」として召した者たちだけで,初代教会の頃にのみ存在していました(エペソ2:20参照)。 (使徒については,クリスチャンは全員「使徒」かを参照して下さい。) したがって,紀元1世紀より後の時代に「使徒」は現れないのです。 もし「使徒」を名乗る人がいたら,その人は間違いなく偽(にせ)使徒です。 (ヘブル3:1の「使徒」は「父なる神から遣わされた者」という意味です。) さらに,引用されているヨハネ13:16の解釈は完全に間違っています。 文脈から,「遣わした者」とはイエス様のことで,「遣わされた者」はこの場にいた使徒たちです。 最後に,ヨハネ7:16の「わたしの教えは,わたしのものではなく,わたしを遣わされた方のものです」は,イエス様を殺そうとしていた不信仰なユダヤ人たちに向けて言われたことばです。 彼らの心が非常にかたくななので,分かりやすく教えられたのです。 17節と18節も見れば,「わたしが教えていることは,わたしが自分勝手に言っているのではなくて,父なる神の教えをそのまま教えているのです」という意味だと分かるはずです。
次の参照箇所の「神に祈るイエス」の項目でも,三位一体の意味を少しも理解されていないことが分かります。 引用されているマルコ15:34は,ユダヤ的視点で理解する必要があります。 結論から言うと,イエス様はここで詩篇22篇全部を引用されたのです。 イエス様は詩篇22篇の冒頭部分だけを引用されたのですが,それが詩篇22篇全部を引用されたことになることを知らない私たち異邦人は,神がイエスを見捨てたと誤解するのです。 また,「神が人間を許そうと思えば,イエスを十字架に掛けなくとも許すことは出来るはずです」というのは,第一に神のご性質を理解していないことから来る誤解です。 (神の全能性については,神は本当に何でもできるのかも参照して下さい。) 第二に,旧約聖書のメシア預言を成就するために,イエス様は十字架刑で死ぬ必要があったのです。 イエス様がマタイ5:17~19で言われたとおりです。
このムスリムの方は,神であるイエス様が悪魔に対して「わたしを礼拝しなさい」と言わず,「あなたの神である主を礼拝しなさい」(マタイ4:10)と言われたことが理解できないようです。 このことを理解する鍵は,イエス様は,私たち人間を愛するあまり,神としての特権を捨てて,人となって来られたという所にあると思います。 「神としての特権を捨てられた」というのがポイントです。 もしこのときイエス様が「わたしを礼拝しなさい」と言ったら,それは神としての特権を行使したことになり,メシアとしての資格を失ってしまいます。 イエス様は人類の罪を贖うメシアとして歩むため,神としての特権を捨てられたのです。 ここに,神の究極の愛の姿を見ることができます。
キリストは,神の御姿(みすがた)であられるのに,
神としてのあり方を捨てられないとは考えず,
ご自分を空しくして,しもべの姿をとり,
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ,
自らを低くして,死にまで,
それも十字架の死にまで従われました。
それゆえ神は,この方を高く上げて,
すべての名にまさる名を与えられました。
それは,イエスの名によって,
天にあるもの,地にあるもの,
地の下にあるもののすべてが膝(ひざ)をかがめ,
すべての舌が
「イエス・キリストは主です」と告白して,
父なる神に栄光を帰するためです。
(『聖書 新改訳2017』ピリピ人への手紙 2章6~11節)
理性で理解できないことがよく会議で決められたものです。イエスがそう言ったのならともかく。
聖書に書いてある(聖書の中で教えられている)ということは,イエス様が言われたのと同じことです。 三位一体は,人間の理性では完全には理解できません。 図に描いて説明しようとしても,不完全な説明しかできません。 しかし,聖書に啓示されているので,信じているのです。 人間の自分勝手な判断で,聖書の啓示を曲げることは許されません。 以下に,信仰の定義を聖書から引用しておきます。
さて,信仰は,望んでいることを保証し,目に見えないものを確信させるものです。
昔の人たちは,この信仰によって称賛されました。
信仰によって,私たちは,この世界が神のことばで造られたことを悟り,その結果,見えるものが,目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
(『聖書 新改訳2017』ヘブル人への手紙 11章1~3節)
そもそも,人間の理性で理解できる神なら,その神は人間の頭の中に収まっているだけの存在です。 当然,創造主でも何でもありません。
イエスは「言う者ではなく,行う者だけが,天国に入る」と言われたのに,パウロが「信仰のみでよい」と決め,キリスト教会ではまたもイエスよりもパウロの言い分を取っています。
この主張を正当化するためにマタイ7:21が引用されていますが,文脈をよく考えると,マタイ7:21~23は,自分を欺いている人への警告です。 自分を欺いている人は,「主よ,主よ」と口では信仰を告白しますが,悔い改めによる霊的新生をしていないので,その人の信仰は外見上のものにすぎません。 悔い改めによって主イエスに結びついていないのなら,その人は救われていません。 イエス様は,そのような人に対して警告されたのです。 それがマタイ7:21~23の意味です。 (実際に,マタイ7:21~23で言われているような人たちが存在します。 例えば,NARを主導している偽(にせ)使徒たちや偽(にせ)預言者たちが該当すると思います。) したがって,救われるためには行いが必要だという,このムスリムの方の主張には聖書的根拠がありません。 (人が救われるためには行いは必要ないことについて,本物のクリスチャンとはも参照して下さい。)
ローマ人への手紙4章で,パウロは,信仰義認(信仰によって義と認められる)の教理が旧約聖書の時代からあったことを,アブラハムとダビデを例に挙げて論証しています(『60分でわかる新約聖書(6)ローマ人への手紙』,『ローマ人への手紙』参照)。 ローマ人への手紙は難しいかもしれませんが,断片的な聖書の知識を整理し,より深く理解するために,是非学んでいただきたいと思います。
そもそも,行いが必要だと主張する人は,行いによって自負心を満足させたいのだと思います。 もし,行いによって救われるのだとしたら,人は自分を誇ることができます。 しかし,行いが必要ないのだとしたら,人は自分を全く誇ることができません。 そのような信仰は拒否したいという傲慢な心の在り方が,信仰のみによる救いを拒否するのだと思います。
気高いイエスの言葉をことごとくひっくり返したパウロに,私は嫌悪の情を覚えます。
パウロはイエス様の教えに忠実に従って,福音を宣べ伝えたのです。 その福音とは,パウロ自身も神から受けたことで,「キリストは,聖書に書いてあるとおりに,私たちの罪のために死なれたこと,また,葬られたこと,また,聖書に書いてあるとおりに,三日目によみがえられたこと」です(1コリント15:1~4)。 パウロが手紙で書いた内容が正しいことは,使徒であるペテロも保証しています(2ペテロ3:15~16)。 ペテロやパウロの使徒としての権威は,イエス様から与えられたものです。 したがって,聖書に書いてあるパウロの教えを否定することは,イエス様の教えを否定することに等しいのです。 イエス様が与えられた使徒としての権威を否定することは,イエス様を拒否することと同じです。 このムスリムの方は,聖書に書いてあるイエス様ではなく,「別のイエス」(2コリント11:4)を敬愛しておられるのです。 また,この方は,使徒17:18を引用して,パウロについて次のような悪口を言っておられます。
「おしゃべり」という部分は英語では "babller" で,それは不明瞭な事をぶつぶつ言う感じです。人に敬意を払ってもらえるような話し方のできない人だったのですね。
「おしゃべり」と訳されていることばは,原文のギリシア語では「スペルモロゴス(σπερμολόγος )」です。 このギリシア語は「種を拾い集める者」という意味で,使徒17:18では,いろんな知識をつまみ食いして,さも自分の教えであるかのように見せかけている「受け売り屋」というような意味です(『使徒の働き(62)―アテネでの伝道(1)―』参照)。 この場にいたエピクロス派(不可知論者)とストア派(汎神論者)の哲学者たちの何人かは,パウロを上から目線であざけって,そのように評価したのです。 この箇所から,パウロは不明瞭な話し方しかできなかったと決めつけるのは的外れです。 ちなみに,正しい綴りは「babbler」です。
このムスリムの方は,「贖いと原罪の信条は,イエスが地上を離れてから300年後にニカイア公会議で採択されたもので,イエスの教えではない」と主張されています。 そして,イエス様の教えではない証拠として,申命記24:16,エレミヤ31:30,エゼキエル18:20,マタイ7:1~2,1コリント3:8を挙げておられます。 しかし,これらは贖いや原罪の教理とは無関係な箇所です。 個人が犯した罪は,その人自身が刈り取らなければならないという教えは,まさしくそのとおりです。 ガラテヤ6:7~8にも,そのように教えられています。 しかし,メシアに関する教えは,別の箇所を見なければなりません。
メシアによる贖いの教理は,旧約聖書の中にはっきりと啓示されています。 簡単に説明すると,モーセの律法の中のレビ記が「血による贖い」について詳細に教えています。 そのレビ記の中心聖句がレビ17:11です。 また,メシアの血による罪の贖いと信仰義認の教理は,イザヤ53:10~11に書かれています。 そして,イエス様は「旧約聖書の預言は全て実現する」と言われました(マタイ5:17~19)。 また,イエス様はこうも言われました。 「あなたがたに言いますが,『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること,それがわたしに必ず実現します。 わたしに関わることは実現するのです」(ルカ22:37)。 この箇所で引用されているのは,イザヤ53:12です。 つまり,イエス様はイザヤ53章のメシア預言をご自分のことだと言っておられ,その預言は全て実現すると言われたのです。 事実,新約聖書を読むと,罪のないイエス様が,メシアとして,全人類の罪のために自発的に死なれたことが分かります。 以上のことを詳しく教えているのが,ヘブル人への手紙です。 この議論の詳細は,参考文献に挙げたフルクテンバウム博士の著書『メシア的キリスト論』の「付録2 なぜメシアは死ぬ必要があったのか」に書かれていますので,是非読んで,学んでみて下さい。
全ての人には生まれつき罪の性質があるという教理(原罪の教理)は,ダビデの詩篇である詩篇51:5(『聖書 新共同訳』と『聖書 聖書協会共同訳』では詩編51:7)からも根拠づけられます。 人は,罪を犯したから罪人になるのではなく,生まれつき罪人だから罪を犯すというのが聖書の教えです。 神の正しさの前では,どんなに律法や戒律を守っても,神から義と認められることはない(神が認める正しさには届かない)のです。 それゆえ,人は誰でも,罪のないお方にすがるしか,義とされることはないのです。 (原罪については,聖書入門.comの「原罪って,なに?」もご覧下さい。)
贖いや原罪の教理を拒否する人には「自分は救いようがないほど,罪にまみれた存在だ」という罪の自覚がないので,メシアであるイエス様の身代わりの死(罪を贖うための死)を信じることによってしか救われないという教えを拒否するのだと思います。 このような人々が,自分の罪の深さをしっかりと自覚して下さいますように。
「聖書は人が霊感を受けて書かれた」とよく言われます。しかし,ルカはここでそう言っていません。ルカは見た人から伝え聞いたことを調べて書いています。(ルカはイエスにあったこともなく,ルカ福音書はイエスの死後50-100年とされています。)
霊感を受けているのは聖書であり,人が霊感を受けているのではありません。 「聖書はすべて神の霊感による」(2テモテ3:16)と書いてあるとおりです。 聖書が神の霊感によることについては,聖書入門.comの「聖書には誤りは含まれていないのですか?」をよく読んで理解していただければ幸いです。
以下に,このムスリムの方が「聖書の間違い」として挙げておられる箇所を一つずつ検討していきますが,基本的に写本を制作する際に生じた写し間違いばかりです。 (1)2列王記8:26と2歴代誌22:2では,アハズヤが即位した時の年齢が「22歳」と「42歳」と異なっていますが,アハズヤの父親であるヨラムが40歳で死んだ後で(2列王記8:16~17,25),アハズヤが王として即位したわけですから,どう考えても「42歳」であるはずがありません。 (2)2列王記24:8と2歴代誌36:9で,エホヤキンが即位した時の年齢が「18歳」と「8歳」と異なっていますが,2列王記24:15から,エホヤキンには複数の妻がいたことが分かるので,「8歳」ではないと思います。 (3)2サムエル23:8と1歴代誌11:11で,勇士の名前と刺し殺した人数が異なっていますが,正確なことは私には分かりません。 (4)2サムエル6:23の口語訳と新共同訳は,同じ意味です。 2サムエル21:8の口語訳は「メラブ」なのに,新共同訳は「ミカル」になっている理由は,ヘブル語本文が「ミカル」となっているからでしょう。 しかし,ヘブル語本文の1サムエル18:19では「メラブ」となっているので,「メラブ」が正しいと言えます。 新共同訳はヘブル語本文をそのまま訳出しただけです。 写本を制作する際には,不明な点は不明なまま写し,間違いがあってもそのまま写すのです。 たとえおかしいと思っても,自分勝手に修正をしないというのが写本を制作する際のポイントです。 また,以上の「間違い」は全て教理とは無関係です。 よって,これらの「間違い」を指摘して,聖書は神のことばではないと主張するのは的外れです。 「聖書は原典において,誤りのない神のことばである」という信仰は充分成立します。 何より,イエス様ご自身が,この信仰の正しさを保証されておられます(聖書が信頼できる理由参照)。
神は人間に似ているでしょうか,似ていないでしょうか?多くの方は創世記の言葉を思い出されると思います。
しかし,次の節によると,神は誰にも比べられるものではありません。
このムスリムの方は,神が人間に似ているという主張の根拠として創世記1:26を挙げ,神は誰にも比べられない存在である根拠としてイザヤ40:18,イザヤ40:25,詩篇89:6,エレミヤ10:6~7(詩篇89:6~7ではありません!)の4つの聖句を挙げておられます。 しかし,創世記1:26と4つの聖句は意味が全く違います。 実際に,それぞれの聖句の意味を説明します。 創世記1:26は,人は神と人格的に交わることができる存在として,また,神の代理者として地を支配し治めるわざに参与できる存在として創造されたことを意味します。 イザヤ40:18とイザヤ40:25は,文脈から,偶像礼拝の愚かさを神が教えておられると分かります。 詩篇89:6は,作者が,天地を創造された主のように力ある者はいないと,主を賛美しているのです。 エレミヤ10:6~7は,エレミヤによる主への賛美です。 以上のように,これらの聖句は何一つ矛盾しません。 人が神のかたちに創造されたことと,神が比類なきお方であることは矛盾しないのです。 そもそも,人が神のかたちに創造されたということと,神が人間に似ているという主張は,全く別物です。
(1)ヨハネ5:31の意味は,イエス様がご自分のことをご自分だけで証しするなら,その証しは真実ではないということです。 これはモーセの律法を前提にした議論です。 モーセの律法では,あることを証明するためには,二人か三人の証人の証言が必要とされます。 そして,32~39節で,イエス様はご自分には4つの証言があることを述べておられます。 したがって,イエス様の証しは真実だと言えるのです。 ヨハネ8:14では,イエス様は,ご自分が神から出て神に帰ることを知っておられるので,その証言は真実だという論理になっています。 しかし,パリサイ人たちは,イエス様がどこから来てどこへ行くのかを知らないので,彼らの判断は間違っているのです。 18節からは,父なる神がイエス様を証ししておられることが分かります。 父なる神は嘘は言われませんから,イエス様の証言は真実なのです。 (2)マルコ10:46とマタイ20:30では目の見えない人の人数が違うと言いたいのでしょうが,マルコは二人のうちの一人に焦点を当てて書いているだけです。 (3)マタイ15:24とマタイ1:21と,マルコ16:15とマタイ28:19は矛盾しません。 父なる神のご計画は常に進展していて,イエス様の公生涯の間(バプテスマのヨハネから昇天までの間。使徒1:21~22)は,イエス様はユダヤ人を祝福するために歩まれました。 しかし,昇天後は,イエスの弟子たちが全世界に出て行って,あらゆる国の人々をイエスの弟子にするのが,神のご計画です。 そして,初代教会の最初の約30年間の歴史を記録しているのが「使徒の働き」(『聖書 口語訳』では「使徒行伝」)なのです。 マルコ16:20の「主は彼らとともに働き,みことばを,それに伴うしるしをもって,確かなものとされた」というのは,まさに「使徒行伝」に記録されている内容を指していると考えられます。 ゆえに,「使徒行伝」は「復活のイエス行伝」とも言えるのです。 「使徒行伝」には,教会を通して働いておられる,復活されたイエス様の働きが記録されているのです。 そして,この復活のイエス様の働きは,現在も教会を通して続いています。
参照箇所の「聖書の矛盾」の項目の「書き換えられた聖書の箇所」で指摘されている内容について,少し説明しておきます。 ルカ3:23は,いくつかの英語訳では「(as was supposed)」と括弧でくくってあります。 しかし,ギリシア語原文には括弧はなく,括弧内の語句もきちんと書いてあります。 括弧でくくったのは,読みやすくしようという翻訳者の考えでしょう。 ただそれだけのことです。 実際には括弧があろうがなかろうが,意味は同じです。 「イエスはヨセフの子と考えられていた」のです。 また,括弧が取られた別の例として,マルコ7:19の「すべての食物を清められたのである」を挙げておられます。 しかし,これも同様に,ギリシア語原文には括弧はなく,括弧内の語句はきちんと書いてあります。 括弧でくくられているのは,翻訳者の工夫でしょう。 それが成功しているかどうかは分かりませんが,それ以上の意味はありません。 そもそも,ギリシア語の古い写本には,日本語で言う句読点が一切なく,ただギリシア文字がずらっと羅列してあるだけなのです。 そのような写本群を比較・検討して,ギリシア語の底本は作られています。 その底本から,英語や日本語などに翻訳され,私たち一般人の手元に届くのです。 写本や底本や翻訳された聖書は,神の霊感を受けていませんので,誤りがあります。 神の霊感を受けているのは原典(最初に書かれた書,原本)だけです。
また,参照箇所の「聖書の矛盾」の項目の「高校生の年で赤ちゃんイシマエル」で述べられている内容についても説明しておきます。 このイシュマエルの記事は,創世記21:8~21に書かれています。 当時の習慣から,イサクが乳離れしたのは,3歳から5歳の間と考えられるそうです。 この頃,イシュマエルは17歳から20歳になっていました。 14節を見ると,アブラハムは愛する息子イシュマエルをハガルにゆだね,パンと水の皮袋を渡しています。 こうして,ハガルとイシュマエルは送り出されました。 (アブラハムは「送り出した」のであり,「追い出した」のではありませんので,誤解のないように。) このパンと水は,次のオアシスにたどり着くまでのものでしたが,ハガルは道に迷い,皮袋の水が尽きて,命の危険に直面しました。 イシュマエルは青年でしたが,彼のほうが先に衰弱し,死にそうになりました。 そこで,ハガルはイシュマエルを木陰に置き,かなり離れた所まで行って,声を上げて泣きました。 イシュマエルが死ぬのを見たくなかったからです。 そこに神が介入されました。 ここに出て来る「神の使い」は,創世記16:7~13に出て来た「主の使い」,つまり受肉前のメシアです(旧約聖書における「主の使い」とは参照)。 神の介入によって,ハガルもイシュマエルも生き延びたのです。 この話の内容を想像すれば,ハガルは,死にそうになっているイシュマエルの体を抱き起こして,水を飲ませたという情景が浮かぶはずです。 そもそも赤ちゃんというのは,「生まれて間もない子供」(『広辞苑』第七版)のことですから,乳離れした子どものことを言うには年齢が合いません。 また,もし赤ちゃんだったら,ぐったりして,まともな声も発せないはずです。 さらに言うと,もし赤ちゃんだったら,ハガルは自殺するか餓死するか,誰かの奴隷にならないと生きていけない時代でした。 当時は,女性が自力で生きられる時代ではありませんでした。 しかし,聖書には,ハガルが誰かの奴隷になったとは書いてありません。 ということは,間違いなくハガルは青年になっていたイシュマエルによって生活の糧を得て,誰の奴隷にもならずに生きることができたと考えられます。 したがって,追放された子どもが赤ちゃんだったという主張は成り立ちません。
また,参照箇所の「聖書の矛盾」の項目の「鶏はいつ鳴いたか」については,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~の「ペテロの離反とイエスの予言」を参照して下さい。 このムスリムの方は,省略されていることを削除されたと考えておられますが,それは間違っています。 福音書の記事には相違はあっても,矛盾はありません。 全て調和して読むことができるようになっています。 例えば,ペテロに「あなたも仲間ではないか」と問いかけた人にも矛盾はありません。 四福音書を比較すると,最初は「ある召使いの女がペテロをじっと見つめて言った」,次に「別の召使いの女がペテロを見て,そばに立っていた人たちに同じことを言った。ある男がペテロを見て言い,その周りの人々も同意していた」,三回目は「そばに立っていた人たちがペテロに言い,その中のある男が特に強く主張した」と考えれば良いだけです。
このムスリムの方は,「四つの福音書はイエスの死後40-80年たって書かれたもので,その著者の誰もイエスに会ったことはありません」と述べておられます。 しかし,そのような考えは近代の批評学者たちの見解です。 伝統的には,マタイの福音書の著者は使徒マタイ,マルコの福音書の著者はペテロの弟子マルコ,ルカの福音書の著者は医者ルカ,ヨハネの福音書の著者は使徒ヨハネです。 使徒であるマタイとヨハネはイエス様と約三年半の間,生活を共にしました。 マルコは使徒ペテロから目撃者情報を直接聞いて書いたと考えられています。 また,福音書の中で自分を登場させてもいます(マルコ14:51~52)。 ルカだけが,イエス様と直接お会いしたことがありませんでした。 しかし,そのルカも使徒パウロの同労者として最後まで付き従ったそうです。 したがって,四福音書には充分信頼できる目撃者情報が詰まっていると言えるのです。 四福音書が信頼できることは,これらの書が使徒的権威によって認められていることからも保証されています(聖書が信頼できる理由参照)。
また,参照箇所の「聖書の矛盾」の項目の「異なる数」については,聖書の教理に関係ないことなので,相違があっても頭を悩ます必要はありません。 「その他の間違い」については,少しだけ説明しておきます。 結論から言うと,名前のわずかな相違は気にする必要はありません。 2サムエル8:9と1歴代誌18:9の「ハマト」か「ハマテ」かは,ヘブル語「חֲמָת」をカタカナ表記する際に生じた相違です。 この相違は,伝統的に「ダビデ」とカタカナ表記されてきたヘブル語「דָּוִד」を,より正確にカタカナ表記すると「ダヴィッド」になるのと同じ理屈です。 同一人物だと分かるなら,どちらでも良いことです。 同じ聖書箇所の「トイ(תֹּעִי)」か「トウ(תֹּעוּ)」かは,ヘブル文字のユッド(י)かヴァヴ(ו)かの違いによるもので,どちらが正しいのかは私には分かりません。 どちらも似た文字なので,写本を制作する際に誤りが生じたのでしょう。 「ハダドエゼル」のヘブル語の綴りは,2サムエル8:9では「הֲדַדְעָזֶר」,1歴代誌18:9では「הֲדַדְעֶזֶר」なので,ヘブル文字「アイン(ע)」に付けられた母音記号に違いがあるだけです。 つまり,母音記号の付いていない本来の綴りは全く同じなのです。 (ヘブル語の母音記号は,聖書が書かれた時代よりもずっと後になってから付けられました。) また,「ヨラム(יוֹרָם)」(2サムエル8:10)と「ハドラム(הֲדוֹרָם)」(1歴代誌18:10)のどちらが正しいのかも,私には分かりません。 いずれにせよ,サムエル記と歴代誌で名前が違っていても,同一人物だと分かればそれで良いのです。 (サムエル記と歴代誌の関係については,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~の「サムエル記と歴代誌の矛盾」の項目を参照して下さい。) 2サムエル24:1と1歴代誌21:1の相違については,サタンがダビデをそそのかすことを,主が許可されたのです。 主が許可された理由は,ダビデが人口調査しようとした動機にあったと思われます。
キリストはダビデの子ではない,と言ったのに,マタイは「ダビデの子」と書いた。
マタイ22:45とルカ20:41から,キリストはダビデの子ではないと言った,という結論は出て来ません。 文脈を理解すれば分かるはずです。 「ダビデの子」というのはメシアの称号で,ユダヤ人なら誰でも知っています(マタイ9:27など)。 当然,イエス様もご自分が「ダビデの子」であることをご存じです。 この箇所でイエス様が言われたのは,キリストは「ダビデの子」(人間)であるのに「ダビデの主」(神)でもあるとは,どういう意味なのかと問うておられるのです。 パリサイ人はメシアが神であることを認めていなかったので,誰も一言も答えられなかったのです。
また,「イエスの肩書きの違い」には,相違はあっても矛盾はありません。 「イエスの死,時間の違い」では,ヨハネ19:14の時刻が間違って訳されています。 正しくは「午前六時頃」です(ヨハネの福音書19章14節「過越の備え日」の正しい意味と,ヨハネの福音書に記されている時刻の正しい解釈について参照)。 「エレミヤ?ゼカリヤ?」については,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~の「裏切り者ユダの死」の項目を参照して下さい。 このムスリムの方は,以上のようなことを「聖書の矛盾」だと主張されておられますが,聖書の読み方を理解すれば矛盾でも何でもないことがご理解いただけると思います。
マルコによる福音書を最後まで読まれたことはありますか?
最終章(第16章)を開いてみてください。9-20節が大きな〔 〕で括られています。
「マルコ16:9-20は,複数の信頼できる古い写本にはない」と英語の聖書には説明書きがあります。
((The most reliable early manuscripts and other ancient witnesses do not have Mark 16:9-20.))
一時期挿入されていたようですが,新しい聖書では削除しているものもあるようです。
これは加筆,削除が行われている例として今挙げているのですが,同時に別の重要なことに絡んでいます。
それは,この部分はキリスト教徒が信じているイエスの復活について記された箇所であることです。イエス復活の話は加筆されたものであったわけです。
マルコ16章の「追加文」(9~20節)について『聖書 新改訳2017』には次のような欄外注が書かれています。 「9~20節を加える写本は多いが,重要な写本には欠けている」。 おそらく,この「追加文」は後代の信者(クリスチャン)が加筆したものだと思います。 だからといって,聖書は改竄(かいざん)されたことにはなりません。 なぜなら,他の福音書や新約聖書の書簡の教えと矛盾していないからです。 この「追加文」があることを根拠にして,イエス様の復活を否定することは論理的に飛躍しています。
参照箇所の「復活?蘇生?」の項目で,このムスリムの方は,ルカ24:36~43に書かれているイエス様のからだは「生きていた時と同じ体であって,復活した体(=霊的な体)ではない」と主張されています。 その根拠がルカ20:35~36だと述べておられるのですが,この論理は全く成り立ちません。 ルカ20:35~36の並行箇所であるマタイ22:30を調べると,なぜこの論理が成り立たないのかが分かると思います。 マタイ22:30やルカ20:35~36で教えられているのは,復活したら人は死なないので,結婚しないということです。 復活したらもう死ぬことはないので,天の御使いたちのように結婚しないというのが,この箇所で教えられていることです。 ルカ24:36~43に書かれているイエス様は,間違いなく復活のからだ(死ぬことのないからだ,栄光のからだ)を持って弟子たちの前に現れておられます。 十字架上で死なれる前と同じからだではないことは,ルカ24:25~27,24:44,24:46のイエス様ご自身のことばから分かります。 また,ヨハネ20:19,20:26を見ると,「戸には鍵がかけられていた」のに,イエス様は突然部屋の真ん中に立たれています。 十字架上で死なれる前と同じからだでは,このような不思議なことはできません。 そして,もし蘇生しただけだったのなら,イエス様は旧約聖書のメシア預言を成就しなかったことになります。 それはあり得ません。 なぜなら,神であるイエス様ご自身が旧約聖書の預言を全て成就すると言われたからです(マタイ5:17~18)。 クリスチャンは聖書に啓示されているイエス様を信じているので,イエス様ご自身が保証しておられる「復活のからだ」だと信じているのです。
イエスが神であるのなら,「復活」前のイエスが死んでいたとされる三日間,
この世は神不在の中に存続していたということですか?
だって,三位一体は不可分なのでしょう?
神の子イエスが十字架の上で亡くなったときに,父である神も聖霊である神も亡くなった。
イエスが死んでも他の神が生きていたのでは,複数の神がいることになります。
そもそも,神は死んだり生き返ったり,ころころ変わるものではありません。
聖書のどこに,イエス様が死んでいた三日間,父なる神も聖霊も死んでいたということが書かれているのでしょうか。 このムスリムの方のように,三位一体を人間の頭で理解しようとすること自体,非常に傲慢です。 無限であり遍在であられる三位一体の神を,一か三か,という有限の数理でしか考えようとしない,かたくなな心の在り方は,神を悲しませます。
参照箇所の「イエスは死ななかった」の項目で,マルコ14:36が引用されていますが,このムスリムの方は,ヘブル5:7を根拠にして,イエスの願いは聞き入れられた,つまり死ななかったと述べておられます。 しかし,マルコ14:36に「わたしの望むことではなく,あなたがお望みになることが行われますように」と書いてあるように,イエス様の願いは父なる神のご計画が行われること,つまり,ご自身が十字架上で全人類の罪のために身代わりとなって死に,墓に葬られ,三日目に復活し,父なる神の右の座に着いて大祭司となられることでした。 これがヘブル人への手紙の文脈から分かることです。
また,次のようにも述べておられます。 「詩篇34:20の預言が成就されたとすれば,イエスは十字架にかけられなかった。十字架に手足を釘で打ち付けられていたら,骨に損傷を受けるはずだから」。 たとえ骨に損傷を受けたとしても,真っ二つになるような折れ方はしないでしょう。 もし十字架に手足を釘付けにされた時に手足の骨が折れたら,十字架刑は成り立ちません。 そもそも十字架刑は見せしめの刑なので,十字架にかけられた者がすぐには死なないようにします。 十字架につけられた者は,十字架上で自分の体を支えなければなりませんが,もし手足の骨が折れていたら体を支えることができなくなり,すぐに窒息して死んでしまいます。
また,ヨハネ19:32,33,34,36を根拠にして,「はじめの兵卒らはイエスが生きているのを知って,イエスに同情して,足を折らずにいた可能性も考えられます」と述べておられます。 しかし,その可能性はゼロです。 なぜなら彼らは兵士であり,軍人として命令違反などできるわけがないからです。 もし命令に違反したら死刑に処されます(使徒12:19)。
それでもまだイエスは十字架で死んだというのなら,イエスは神に呪われた者であるということになります。
おっしゃるとおり,イエス様は人として,神にのろわれた者となられました(申命記21:22~23)。 パウロがガラテヤ3:13~14で書いているとおりです。 つまり,イエス様は私たちの身代わりとなって,のろいを受けられたのです。 聖書の論理は見事に一貫しています。
ムスリムの方々は,イエス様が十字架上で死んだのではなく,別人をイエス様に似せて十字架にかけたと教えられているようですが,その説明は100パーセントあり得ません。 なぜなら,イエス様の顔は,当時の多くのユダヤ人が直接見ていて,よく知られていました。 イエス様を十字架にかけて殺すことをピラトに要求した祭司長たちも,よく知っていました。 もし別人だったら,祭司長たちも他のユダヤ人たちも必ず気づきます。 いくらイエス様に似せようとしても,本人か別人かの区別くらいは誰にでもできます。 一卵性双生児でもない限り,別人をイエス様に仕立て上げるのは絶対に不可能です。 したがって,十字架上で死なれたのは,間違いなくイエス様ご自身であると断言できるのです。 イエス様が十字架上で死んだことは,イエス様に敵対していたユダヤ人の書であるタルムードでさえ,事実だと認めています。 タルムードでさえも,イエス様が十字架上で死んだことは否定できないのです。 なぜなら,実際にイエス様の十字架刑を見た人たちが大勢いるからです。
また,参照箇所の「神と預言者に対する冒涜」の項目には「近親相姦と糞の話」があります。 このムスリムの方は「聖書は聖なる預言者たちを辱めました」と主張されておられますが,預言者たちも私たちと同じ罪人にすぎません。 聖書に書かれている預言者は,私たち罪人とは異なる,汚れのない完全無欠の人だと考えるのは間違いです。 事実,聖書はそのようには教えていないからです。 反論があるとすれば,ルカ1:70と使徒3:21に「その聖なる預言者たち」と書いてある,というものでしょうか。 この「聖なる」という言葉の意味を説明しておきます。 ヘブル語では「コデシュ(קֹדֶשׁ)」,ギリシア語では「ハギオス(ἅγιος)」と言い,ともに「聖」を表す言葉ですが,聖書での第一義的意味は「神の御用のために区別されている」です。 つまり,その預言者の本質がきよいという意味ではないのです。 存在そのものが聖であるのは,神だけです(出エジプト15:11,1サムエル2:2,イザヤ6:3,黙示録4:8など)。 ちなみに,ロトは「正しい人」(2ペテロ2:7~8)とは書かれていますが,預言者とは書かれていません。 実際,ロトは何の預言も語っていないので,ロトは預言者ではないと考えられます。 (1)聖書に記録されている近親相姦の話は歴史的事実です(マタイ5:17~19)。 ちなみに,近親結婚が禁じられたのは,モーセの律法(レビ記18章)が与えられて以降です。 したがって,アブラハムとサラの結婚は罪だとは書かれていないのです。 そもそも近親結婚をさかのぼって考えれば,アダムとエバの息子・娘たちにまで行き当たりますが,彼らの結婚は罪ではありません。 聖書は彼らの結婚を罪だとは教えていません。 (2)エゼキエル4:12,4:15に出て来る「糞の話」については,まずエゼキエル書の時代背景を知っておく必要があります。 祭司エゼキエルは紀元前597年のバビロン捕囚(主なバビロン捕囚の第二回目)で捕囚となって連れて行かれました。 捕囚の地で,エゼキエルは預言者として召されます。 その当時,まだエルサレムは崩壊していませんでした。 そこで神である主は,エゼキエルに,エルサレムが受ける裁きを預言する,4つの象徴的行為をするように命じます(エゼキエル4:1~5:4)。 その象徴的行為の第三が,エゼキエル4:9~12に書かれているのです。 そして,この第三の象徴的行為は,エゼキエル4:16~17に書かれているとおり,エルサレムの住民は包囲されている間に飢餓状態に陥ることを意味していました。 パンを焼く燃料もなくなってしまうので,人の糞や牛の糞を燃料にしてパンを焼かなければならなくなるという預言です。 エゼキエルが人の糞を嫌がったのは,モーセの律法で人の糞は「汚れたもの」とされていたからだと考えられます(申命記23:12~14)。 もちろん,この話のポイントは「糞」ではありません。 (3)マラキ2:3に出て来る「糞」についても,まずマラキ書の時代背景を理解する必要があります。 預言者マラキは,捕囚期後にユダヤ(特にエルサレム)で活動した預言者です。 マラキは,形骸化した礼拝をしている祭司たちの罪を糾弾しています(マラキ1:6~2:9)。 マラキ2:3は,モーセの律法の規定(出エジプト29:14)で,宿営の外で焼かれる汚物が,律法と契約に不真実な祭司たちの顔にまき散らされ,彼らはその糞とともに投げ捨てられるという意味です。 形式だけの礼拝をしている祭司たちはその「のろい」を受け,宿営の外へ投げ捨てられるという意味です。 もちろん,この話のポイントも「糞」ではありません。 (4)聖書に出て来る近親相姦や糞の話は,神や預言者を冒瀆(ぼうとく)するものではありません。 このムスリムの方は,「聖書」を完全に誤解されています。 また,「人間に負かされる神」では,創世記32:24~30を引用して,「神は人間と取っ組み合いをし,人間にお願いをし,人間に脅されるような存在ですか?」と述べておられます。 この箇所も,文脈と登場人物の気持ちを考える必要があります。 結論だけ言うと,神(受肉前のメシア)は本気でヤコブと戦ったのではありません。 ヤコブは,この試練を通して祝福を受けたというのが,この箇所のポイントです。 そして,この記録も歴史的事実です(ヨハネ5:45~47)。
キリスト教徒のみなさまはこれを信じていらっしゃいますか? 後世の人たちが自分たちの悪行を正当化するために,預言者も悪行を行ったとして加筆した,という可能性はありませんか。
その可能性は微塵もありません。 なぜなら,イエス様がその正しさを保証しておられるからです(マタイ5:17~19)。
人間を導くための預言者とするのに神が素質のない人を選ぶということが有り得るでしょうか。
神は,ご自分の計画を進めるために,最適な人物をお選びになられます。 人間の目には不適格に見えても,神の目からは違って見えています。 1サムエル16:7に書いてあるとおりです。
主はサムエルに言われた。 「彼の容貌や背の高さを見てはならない。 わたしは彼を退けている。 人が見るようには見ないからだ。 人はうわべを見るが,主は心を見る。」
(『聖書 新改訳2017』サムエル記 第一 16章7節)
ムスリムにとって,聖書のこのような記述は怒りさえ覚えさせるものです。ノア,ヤコブ,ロト,ダビデら,神に遣わされた尊い預言者たちが侮辱されているのですから。ムスリムは神がお選びになられた預言者全員を敬います。
ムスリムの方々が敬うのはクルアーンに書かれている預言者たちであって,聖書に書かれている預言者たちではありません。
結局の所,聖書とクルアーンと,どちらが信頼できるのかという問題になると思います。 聖書が信頼できる理由は,聖書が信頼できる理由で説明したとおりです。 以下に,聖書が信頼できる根拠をまとめて,箇条書きにしてみます。 それぞれの詳細については,聖書を理解するための基礎問題集の問7の解答を参照して下さい。 (クルアーンには,これほどの強力な根拠はありません。)
このムスリムの方は,イザヤ21:6~7の「ろばに乗った者」をイエス,「らくだに乗った者」をムハンマドだと主張されておられますが,文脈を考えれば,その論理は全く成り立ちません。 (1)まず,イザヤ21:1~10は,イザヤがユダの民に語ったバビロン滅亡の預言です。 1節の「海の荒野(あらの)」とはバビロンのことです。 この預言は,キュロス王が紀元前539年にバビロンを滅ぼした時に成就しました。 (2)7節の「ろばに乗る者やらくだに乗る者」(『聖書 新改訳2017』)とは,バビロンに攻め寄せる戦車や騎兵のことです。 ここで「乗る者」と訳されているヘブル語「レヘヴ(רֶכֶב)」は,戦車とか,軍隊,隊列という意味です。 英語訳聖書は分かりやすい訳になっています。 例えば,OJBでは「donkey riders and camel riders」と訳されています。 また,NIVでは「riders on donkeys or riders on camels」と訳されています。 (3)しかし,マタイ21:5によると,イエス様は子ろば(a colt)に乗ってエルサレムに入城されました(ゼカリヤ9:9の成就)。 これは,イザヤ21:6~7の預言が成就してから約570年後のことです。 (4)ゆえに,イザヤ21:6~7の「ろばに乗った者」はイエス様ではあり得ませんし,「らくだに乗った者」もムハンマドではあり得ません。 (5)ムハンマドについての預言は,聖書には全くありません。 これが真実です。
このムスリムの方は,イザヤ21:6~7を受けて,イザヤがイザヤ21:13の「アラビアについての宣告」を語ったと述べておられますが,その解釈はどう読んでも成り立ちません。 完全に文脈を無視しておられるからです。 イザヤ21:13~17は,アッシリアによって攻撃される直前(前712年~前711年)に語られたアラビアに対する宣告です。 つまり,イザヤ21:6~7の内容とは無関係の箇所なのです。
参照箇所の「聖クルアーンとは?」のページの中で,クルアーンが神のことばである証拠として,8つの「現代の科学で証明される科学的記述」が挙げられています。 しかし,このような内容はクルアーンが神のことばである証拠とは言えません。 なぜなら,これぐらいのことは悪魔(サタン)や悪霊(あくれい)でさえ知っているからです。 サタンや悪霊は,私たち人間よりも多くの知識を持っています。 ゆえに,当時の人々が知らなかったことがクルアーンに書かれていたとしても,何も不思議なことではありません。
また,「クルアーンの特徴」として,「自分の振る舞いをたしなめられている記録を敢えて後世に残そうとする人が他にいるでしょうか」とありますが,聖書の中には信仰者たちの失敗がこれでもかというほど記録されています。 よって,このクルアーンの性質は,クルアーンの正当性を主張するものとは言えません。
また,クルアーンと聖書の記述を比較して,クルアーンで述べられている神こそ全能だと主張されておられるようですが,そもそも引用されている聖書箇所の意味を理解されておられません。 (1)創世記2:2は,神には休息が必要だという意味ではありません。 ここで使われているヘブル語は「シャバット(שָׁבַת)」で,創造のわざの完成,終了,休止などの意味があります。 (2)創世記3:8~11は,神はアダムがどこに隠れているのか,また,食べてはならない木からアダムが食べたのか,知らなかったのではありません。 9節では,神はアダムに,なぜ隠れているのかと,その理由を問うているのです。 実際,10節を読むと,アダムは隠れた理由を説明しています。 また,11節のことばは,アダムを罪に定めるためのものではなく,アダムを罪の告白に導くための質問です。 (3)ヨハネ16:7は,父なる神のご計画です。 事実,イエス様が昇天されてから10日後の五旬節の日に,使徒たちを含むユダヤ人信者に聖霊が注がれました(使徒2章)。 イエス様は常に父なる神のご計画に従っておられるのです。
ムハンマド(saw)はその当時の多くの人がそうであったように読み書きを知らなかったし,聖書の内容を知りませんでした。
啓示がムハンマド(saw)に下りていた当時,アラビア語の聖書は存在しませんでした。
ムハンマドが聖書の福音を知らなかったとしても,神はムハンマドに対して,救いに至るように,自然界や彼の良心を通して啓示を与えておられました。 そして,ムハンマドが神の啓示に素直に応答していたら,救いの福音を聞くチャンスが与えられました。 なぜなら,聖書にはこう書いてあるからです。 「神は,すべての人が救われて,真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ2:4)。 しかし,ムハンマドは,まことの神を拒否し,にせの神を受け入れてしまいました。 ムハンマドは自分に与えられていた自由意志を悪用して,まことの神を拒否したので,彼には弁解の余地はありません。
「ユダヤ・キリスト教徒が信じない理由」には,「最後の預言者がイスラエル人でなかったことによる妬み」とありますが,本当にそうでしょうか。 このムスリムの方は,ユダヤ人が今でも割礼を施していることや,異邦人は割礼を受ける必要がないことすらご存じなかったので,ユダヤ教徒やクリスチャンがクルアーンを信じない本当の理由はご存じないのではないかと思います。 少なくとも,私がクルアーンを信じない理由は,前述した「聖書が信頼できる根拠」と,このページで述べてきたことを最初から順番にお読みいただければ,充分にご理解いただけると思います。 また,アラブ人クリスチャンであるトマス・ダミアノス師(イスラエル聖書大学教授)の証しは非常にすばらしいので,ムスリムの方々にもクリスチャンの方々にも是非聴いていただきたく存じます。 イエス様を信じることの祝福を味わっていただければ幸いです。
イスラームにおいてもイエスとマリアは誰よりも敬われるべき存在とされています。預言者ムハンマドは,すべての女性のうちでもっとも優れている女性としてマリアを挙げました(自分の妻や娘の名を言うのではなく)。
主イエスの母マリアは,確かに模範的な信仰者の一人だったと思いますが,聖書はマリアが「最も優れた女性だ」とは教えていません。 聖書によると,マリアもまた,私たちと同じ罪人であり,恵みのゆえに主イエスの母とされたのです。 マリアが罪人であったことは,ルカ2:22~24,2:39から分かります。 マリアは,モーセの律法の規定(レビ12:8)に従って,自分の罪のきよめのささげ物を献げました。 マリアが神から恵みを受けたことは,天使ガブリエルから「恵まれた方」(ルカ1:28)と言われ,また,「あなたは神から恵みを受けたのです」(ルカ1:30)と言われたことからも分かります。 ちなみに,聖書で言う「恵み」(ギリシア語で「カリス(χάρις)」)とは,受ける資格のない者に神が与えて下さる愛のことです(参考文献:高木慶太著『恵みによる信仰生活1』改訂新版,いのちのことば社,2002年)。
ムスリムの礼拝のしかたはおかしいと言う方もいらっしゃいます。でも,イエスを含め,預言者たちが同じように平伏して祈っておられたことは聖書にも記されています。初期のキリスト教徒も同じようにしていましたが,多くのキリスト教徒はいつからかそれをやめてしまったようです。
このムスリムの方は,詩篇95:6,ヨシュア5:14,1列王記18:42,民数記20:6,創世記17:3を例に挙げて,クリスチャンも平伏して祈るべきだと主張されていますが,神が人間に,「祈る時には必ず地にひれ伏して祈りなさい」と命じられたことは一度もありません。 この方が例に挙げられた五つの聖書箇所を見ても,全て人間の自発的な行為であり,神に命じられたからひれ伏したのではありません。 例えば2サムエル7:18を見ると,ダビデは「ダビデ契約」(2サムエル7:11b~16)と呼ばれる約束を与えて下さった神に対して,「座って」祈っています。 (2サムエル7:18で使われているヘブル語は,「ひれ伏す」とか「伏し拝む」という意味の「シャハー(שָָׁחָה)」でもなく,「ひざまずく」という意味の「カダッド(קָדַד)」でもなく,「座る」という意味の「ヤシャヴ(יָשַׁב)」です。) また,イエス様も,「地にひれ伏して祈りなさい」とは一度も教えておられません(マタイ6:5~13,ルカ11:1~4)し,イエス様ご自身も常にひれ伏して祈られたとは書いてありません(マルコ1:35など)。 神が喜ばれるのは,形式だけの祈りではなく,真心からの祈りです(ホセア6:6)。 また,祈る時には必ず地にひれ伏しなさいという教えは,非現実的です。 例えば,歩いている最中に祈りたくなって,歩いている道や交差点の真ん中で突然地にひれ伏して祈り始めたら,周囲に迷惑がかかる場合が多いでしょう。 また,誰かと食事をしている最中に祈りたくなって,席を立って地にひれ伏して祈り始めたら,やはり周囲に迷惑がかかるでしょう。 あるいは,車や電車を運転している最中だったり,飛行機を操縦している最中だったら,祈りたくても,地にひれ伏して祈ることは非常に困難だと思います。 このように,祈る時には必ず地にひれ伏しなさいという教えは,非現実的なのです。 真心から祈るのなら,時間も場所も関係ありません。 どこで祈っても良いのです。 (祈りとは,神との人格的な交わりのことです。) これが聖書の教えであり,神が喜ばれることです。 もちろん,周囲に迷惑がかからない状況なら,地にひれ伏して祈っても構いません。 大事なのは,形式的な祈りをすることではなく,真心から自発的な祈りをささげることです。 祈祷書を使う必要もありません。 自分の言葉で,心の中にある思いを素直に祈れば良いのです。 ちなみに,聖書の中で,ひれ伏して拝むことを自ら要求したのは,悪魔だけです(マタイ4:9)。
また,ムスリムのするような沐浴(清め)も行われ,ムスリム女性が礼拝時に覆うように,頭部に覆いをすることが定められているようです。
このムスリムの方が引用しておられる出エジプト40:31~32,使徒21:26,1コリント11:5について説明します。 (1)出エジプト40:31~32は,モーセの律法の規定(出エジプト30:17~21)に従ったという記録です。 しかもこの規定は,イスラエルの民全員に対する規定ではなく,アロンとその子孫である祭司たちだけに命じられた規定なので,一般のイスラエル人には無関係です。 当然のことながら,私たち異邦人も無関係です。 (2)使徒21:26は,その前の文脈(使徒21:17~25)から,パウロはユダヤ人として,モーセの律法の一部をきちんと守っているという記録です。 モーセの律法はイエス様の死によって無効になりましたが,ユダヤ人信者にはモーセの律法の一部を守る自由もあるのです(使徒15章,ローマ14章参照)。 (3)1コリント11:5は,当時の中近東の習慣と,当時のコリントという町の文化的背景を前提に考える必要があります。 なぜなら,女性が祈る時には必ず頭にかぶり物を着けなさいという命令は,そもそもモーセの律法にも存在しないからです。 1コリント11:5の文脈をよく読むと,パウロは「習慣」と言っているだけです。 したがって,結論を言うと,この習慣を現代人にそのまま適用する必要はないと思います。 あくまで,この当時の不道徳なコリントという町の特殊な状況の中で理解すべきです。
これまで,このムスリムの方の主張を詳細に検討してみましたが,どれも的外れな指摘だったことが分かりました。 特に文脈の無視,当時の時代背景の無視,ユダヤ的背景の下で書かれた聖書に対する無知と無理解が目立ちました。 しかし,最も本質的な問題は,心の在り方にあると思います。 このムスリムの方は,傲慢で,あわれみ(真実の愛)のない方だと感じました。 そのような心の在り方が,霊的に盲目になっている最大の原因だと思います。 どうか,このムスリムの方に,まことの神のあわれみが豊かにありますように。 そして,この方と同じような考えを持っておられるムスリムの方々にも,まことの神のあわれみと恵みが豊かにありますように。 主イエス・キリストの御名によって,お祈り致します。 アーメン。