世界基督教統一神霊協会(現在の正式名称:世界平和統一家庭連合,以下「統一教会」と表記)はマスコミを通して,特に合同結婚式で有名になりましたが,その他にも様々な活動をしています。 統一教会の外部に対しては,自分たちが統一教会のメンバーであることを名乗ることなく,別の団体を装って,募金などの経済活動をしたり,純潔運動や家族愛をうたった勧誘(伝道)も頻繁に行っています。 一方,統一教会の内部では,信仰生活と称して,祈祷,断食,水行,献金,そしてメンバーたちとの共同生活(特に原理研究会)などをしています。 しかし,そういった活動の原動力となっている理念自体は,世間ではあまり知られていないと思います。 その理念は,彼らの教理解説書として位置付けられている『原理講論』という書物に集約されています。 『原理講論』の内容は,教祖である文鮮明(ムン・ソンミョン)氏が明らかにしたとされる絶対的真理(これを「原理」または「統一原理」と呼びます)の一部を書き記したものと言われています。 そして,統一教会のメンバーの信仰生活は,全てこの『原理講論』から導かれるようになっています。
しかし『原理講論』には,あまりにも多すぎる誤りや矛盾などが存在しており,絶対的真理どころか,一つの仮説としても成り立ちません。 誤りや矛盾を全て取り除いてしまえば,『原理講論』はただの空白の書物になってしまうでしょう。 しかし,そこには哲学的な難しい用語だけでなく,聖書からの引用もたくさんあり,一般の人にはなかなか理解するのが難しいという現実があります。
ところが,幸いというべきか,『原理講論』の内容は矛盾に満ち満ちており,あまり他の資料を用いることなく,原理は原理によって否定されるのです。 ゆえに,統一原理は破棄されるべきものであり,統一教会での信仰生活も,罪を清算するとか,地上天国を実現するという彼らの目的を達成するためには,全く無意味なものとなってしまうのです。 また,文鮮明氏が真のメシア(救世主)であることは『原理講論』によって正当化されていますが,このことも原理によって完全に否定できます。 つまり,『原理講論』とは,文鮮明氏が偽(にせ)メシアであることを証しする書物にほかならないのです。
私は,以上のようなことを明確にするために,一冊の本を著しました。 それがこのページで紹介する『これが統一原理だ』です。 この本では,1992年7月10日に光言社から発行された世界基督教統一神霊協会著『原理講論』第3版第22刷を底本として,最初から順を追って批判を展開しています。 第3版を底本とした理由は,単に私がそれを所持しているからです。 よって,他の年次に出版された『原理講論』とは,私が『これが統一原理だ』で指摘した頁数や行数が異なっている場合があるかもしれませんが,その点はどうか御容赦下さい。
統一原理のことを詳しく知りたいと思っておられる方々のために,『これが統一原理だ』の原稿を無料で公開することにしました。 以下のリンクから自由にダウンロードして下さい。 分量は多いですが,論理的に正しく考えられる方なら,統一原理がいかに非論理的なのかがよく分かると思います。 それと同時に,「文鮮明氏が偽メシアである」というのは,主観の入る余地が全くない,客観的事実であることも確実にご理解いただけると思います。 文鮮明氏をメシアとして信じる余地は微塵もありません。
『これが統一原理だ』第7版(PDFファイル,1.04MB,2021年2月6日訂正)
また,統一原理で使われている特殊用語に関する補足説明もPDFファイルで作ってみましたので,参考までに,こちらも公開しておきます。
『これが統一原理だ』の第6版と第7版は国立国会図書館に納本してありますので,紙で読みたいという方は,お近くの図書館で取り寄せて読むことも可能です。 国立国会図書館の蔵書を読む方法に関しては,レファレンス・サービスを行っているお近くの図書館の窓口でお尋ね下さい。
以下に,『これが統一原理だ』から,総序,創造原理,堕落論など,重要な箇所の一部をご紹介します。 より分かりやすく説明してみました。
以上のことだけでも,統一原理は真理どころか仮説ですらなく,文鮮明氏は偽メシアであることが充分ご理解いただけると思いますが,念のため,他の章からも少しだけ説明しておきます。
以上,ほんの少しだけですが,これだけでも『原理講論』の間違いは「単なる記述ミス」では済まされない「重大なレベルの問題」であることがご理解いただけると思います。 それだけでなく,文鮮明氏に韓鶴子女史,さらにその子女たち全員も,生まれつき原罪のある堕落人間であることも証明されました。
文鮮明氏に比べると,韓鶴子女史の子どもの頃の情報量は非常に少ないのですが,上記の「その他」の中で述べた原罪に関する考察が,韓鶴子女史にもそのまま当てはまります。 実は,韓鶴子女史の両親が無原罪であったという話は全くありませんし,両親がまともなクリスチャンであったという話もかなり疑わしいのです。 そこで,現役メンバーにとって説得力のある説明をするために,統一教会側の資料である『韓鶴子女史御言選集 愛の世界』(初版,光言社,1989年)を用いて,韓鶴子女史に関する説明を加えたいと思います。
例えば,同書170頁には,姜賢実(カン・ヒョンシル)伝道師による,辻褄の合わない証言が載っています。 韓鶴子女史の母親である洪順愛(ホン・スネ)(洪ハルモニとも呼ばれています)は29歳まで李龍道(イ・ヨンド)牧師につき従ったと書かれていて,1942年3月の30歳の時に妊娠し,翌年1943年陰暦1月6日の午前4時30分に韓鶴子女史が誕生したそうです。 しかし,李龍道牧師は1933年10月2日に33歳で死亡しているのです。 ということは,洪ハルモニが29歳の時には李龍道牧師は既に死んでいるので,29歳まで李龍道牧師につき従ったというのは嘘になります。 もし洪ハルモニが29歳まで李龍道牧師につき従ったのだとしたら,李龍道牧師は少なくとも1941年まで生きていたことになりますが,これは事実に反します。 このような辻褄の合わない証言が,韓鶴子女史を証しするはずの『韓鶴子女史御言選集 愛の世界』には載っているのです。 実におかしなことです。 ちなみに,韓鶴子女史の両親は二人とも李龍道牧師の教会に行っていたそうですが,李龍道牧師は元々所属していたメソジスト教会連合で問題となって追放された人物であり,『原理運動の秘事』(昭和42年12月20日初版発行,韓国書籍センター,原書:『社会悪と邪教運動』)や『韓国キリスト教史』132~135頁によると,李龍道牧師は神秘的な邪教運動をしていたことが書かれていますので,まともな牧師ではなかったと考えられます。 また,李龍道牧師のこの話から,韓鶴子女史の母親である洪順愛は,異端あるいは破壊的カルトのメンバーだったことが分かります。
また,『韓鶴子女史御言選集 愛の世界』を調べて見ると,韓鶴子女史に関する洪ハルモニの証しと,姜賢実女史の証しには明らかな矛盾があることが分かります。 (1)まず,母親である洪ハルモニの証しを引用します。 「お産後のわかめスープを飲んで,お母様(韓鶴子女史のこと)を抱いて眠ったのですが,真っ黒な角を持ったサタンが近づいてきて,お母様を殺そうとしたのです。私は『サタンよ退け! この娘は私にとって本当に大切な娘なのに,どうしておまえは殺そうとするのか』と叫びました」(164頁)。 (2)次に,姜賢実女史の証しを引用します。 「洪ハルモニがわかめスープを召し上がると,周囲が急に暗くなり,体がとても強い鉄のロープでしばられたように動けなくなったそうです。それで,だれかに『助けて』と声を上げようとしたのですが,声が全く出てこなかったというのです」(171頁)。 同じ状況を説明したはずの二人の証言は,明らかに矛盾しています。 このようなあからさまな矛盾が,同じ本の中に載っているのです。 しかもこの本は,統一教会の出版社である光言社から出版されているのです。 現在,この本が販売されていないのは,統一教会(現在の家庭連合)にとって都合の悪い本だからでしょう。
また,『韓鶴子女史御言選集 愛の世界』には,他にも不可解な記事が載っています。 韓鶴子女史は,「私は先生と出会って後,教会に通いながら中学を卒業し,高校に入学しました」(20頁)と証言しているのですが,220頁の『女性東亜』(1986年5月号)の記事の抜粋によると,「韓鶴子嬢は春川(チュンチョン)とソウルを行き来したが,ソウルに定着。ソウルにある善正(ソンジョン)女子中学校を卒業した後,聖ヨセフ病院の看護補助員として働いていた。母親の洪順愛女史は一・四後退時に南下,春川を経て,文教主の追従信徒として,文教主の食事を作ったりして,先生のそば近くで働いていた。一説によると,韓嬢が新婦として選ばれた当時,某女子高に在学中であったという話もあるが確認できない」とあるのです。 卒業した中学校の名前や,その学校がソウルにあったことまで判明しているのに,入学した高校(女子高?)の名前は確認できないというのは,おかしな話です。 しかも,中学校を卒業後に働いていた病院の名前や立場まで判明しているのに,なぜ高校の名前は全く確認できないのでしょうか。 人類を救う再臨主の妻の経歴に,こんなにピンポイントに不明瞭な部分があるというのは,どういうわけでしょう。 おそらく,高校に入学したという韓鶴子女史の証言は嘘なのだろうと思います。
『韓鶴子女史御言選集 愛の世界』に書いてあるとおり,文鮮明氏と韓鶴子女史は1977年に完成基準に達したのなら,上記のようなおかしな話が1989年に出版された統一教会側の資料に載っている理由を説明できません。 また,この本の223~224頁を読むと,韓鶴子女史が産んだ子女のうち,恵進(ヘジン)の名が記載されていないことに気づきます。 韓鶴子女史は,自分がお腹を痛めて産んだ子どものことも忘れてしまったのでしょうか?
以上のことから,韓鶴子女史も生まれつき原罪のある堕落人間であると結論づけられます。 したがって,原罪を清算するとか,地上天国を実現することを目的としている統一教会(現在の家庭連合)は,それらの目標を絶対に達成できない,無意味な活動をしているにすぎないのです。 現役メンバーには,現実逃避をせずに,原理としっかり向き合うことで,以上の内容をよく理解していただきたいと願っています。
上記の説明によって,『原理講論』の内容は根本的に間違っていて,原理は全て破棄されるべきものであることがご理解いただけると思いますが,もっと簡単に原理の全てを白紙にしてしまうことが可能です。 それは,原理の神が存在しないことを,原理によって証明すれば良いのです。 『原理講論』の基本的な内容と構造を理解している人なら,この証明は非常に簡単に理解できますので,以下に記述しておこうと思います。 この証明を見て,「なるほど,言われてみれば確かにそのとおりだ」と納得できる人は,たとえマインド・コントロールされていても,理性が正しく働いている証拠になると思います。 逆に,この証明を見てもピンとこない人は,原理を正しく理解していないか,マインド・コントロールによって原理について正しく考えられなくなっている人だと考えられます。 この証明は,原理を正しく理解しているかどうか,あるいは理性がきちんと働いているかどうかを判定するための一つの基準になると思います。 (この証明は,統一思想も認めている形式論理学の「矛盾律」とか「矛盾原理」と呼ばれる基本法則を採用しています。 「矛盾律」とは,『広辞苑』第七版によると,「思考の法則の一つ。『Aは非Aでない』または『SはPであると同時に非Pであることはできない』という形式で表す。この原理は,一定の論述や討論において概念の内容を変えてはならないことを意味し,同一律の反面をなす」とあります。)
この証明は,原理を正しく理解していれば簡単に納得できます。 まず「原理による定義」の「原理の神が全知全能である」ことは,『原理講論』前編第二章第六節「神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由」にはっきり書かれています。 その部分を引用します。 「神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知られなかったはずがない。 また彼らが堕落行為を行わないように,それを防ぐ能力がなかったわけでもない」。 同じ項目中に「神は絶対者であり,完全無欠なる創造主であられる」とも書かれています。 また,前編第六章第四節「予定説の根拠となる聖句の解明」の中でも,「神は全知であられる」と書かれています。 よって,原理の神が全知全能であることは明らかです。
次に,「原理の神が全知全能ではない」ことは,『原理講論』前編第四章第一節(五)「十字架に対する預言の両面」を読めば分かります。 その部分を引用します。 「人間の責任分担の遂行いかんによって生ずる両面の結果に備えて,神はイエスのみ旨成就に対する預言を二とおりにせざるを得なかったのである」。 これは,神は全知ではないと言っていることになります。 なぜなら,この原理を言い換えると,「人間が一度で責任分担を遂行できるかどうか,神は分からないから,預言を二つも用意せざるを得なかった」という意味になるからです。 もし神が本当に全知なら,人間が責任分担を遂行できるかどうかを完全に知っていることになるので,預言は一通りしかあり得ません。 ゆえに,この『原理講論』の記述から,原理の神は全知ではないことが分かります。 全知ではないということは,全能でもないということになります。 よって,原理の神は全知全能ではないことになります。
以上のことから,原理は「神は全知全能であると同時に全知全能ではない」と主張していることになります。 しかし,「全知全能であると同時に全知全能ではない」というのはただの論理矛盾です。 いかなる理屈を持ってしても,この矛盾を解消することは不可能です。 したがって,必然的帰結として,全知全能であると同時に全知全能ではないという原理の神は存在しないことになります。 以上で,上記の定理は証明されました。 原理の神は存在しないのです。
ここで,「原理の神は,人間に責任分担を完遂させることにより人間に神の創造性を賦与するために,あえて自らの全知性を制限したのだ」という反論があるかもしれません。 しかし,その時点で原理の神は絶対者ではなくなってしまいます。 また,人間が責任分担を遂行できるかどうか分からない状態にあるので,原理の神は不完全な存在になっています。 これは前述した『原理講論』前編第二章第六節の記述と矛盾します。 つまり,原理の神が本当に絶対者であり,完全無欠の存在であるなら,自らの全知性を制限したりしていないのです。 よって,この反論は成立しません。 これが理解できない人は,まず間違いなく「絶対者」という言葉の意味を理解していないと思います。 『広辞苑』第七版によると,「絶対者」とは「絶対的なもの。宇宙の根底として無条件・無制約・純粋・完全で,自ら独立に存在する唯一の最高存在」とあります。 つまり,原理の神が本当に絶対者なら,他のどんな被造物とも相対的関係や相対的側面も持っていないのです。 絶対者なら,それ自体で完全な存在であり,何か不足している要素など全くありませんので,人間を創造する必要など,全くないのです。 したがって,神は絶対者でありながら,どうしても人間を創造する必要があったという考えは,矛盾していて,決して成立しません。 また,神が絶対者なら,たとえ人間がどのように行動しようとも,神の計画に変更がないのはもちろんのこと,神の定められた時が延長されるなどということも全くありません。 逆の言い方をすると,もし,神の定められた時が,人間の責任分担の遂行次第で変わるのなら,その神は絶対者ではありません。 そして,その神は人間にとって相対的存在であり,時間も空間も超越しておらず,全知全能でもありません。 このことが理解できるなら,もはや原理や,いかにも賢そうな肩書きを持っているメンバーの言うことに惑わされることはなくなります。
原理の神が全能ではないことを説明するために,『原理講論』前編第二章第六節における「神は人間の堕落行為に干渉することができなかった」という部分を引用する人がいますが,これはこの項目の文脈を正しく理解すれば,間違いであることが分かります。 例えば,「私は嘘をつきたくないので,嘘をつくことができません」と言う人がいたとします。 では,その人には嘘をつく能力がないのでしょうか。 そうではなく,「嘘をつこうと思えばできるけれど,ある信念があるために,私は嘘をつきたくない」という意味で「嘘をつくことができません」と言っているのです。 先に挙げた原理の箇所もこれと同じで,「原理の神は人間の堕落行為に干渉する能力はあるけれど,創造原理を無視するわけにはいかないので,泣く泣く堕落行為に干渉しなかった」という意味に理解できます。 したがって,『原理講論』のこの「干渉することができなかった」という言葉を根拠に,「原理の神は全能ではない」という結論を導くことはできません。
ところで,『原理講論』における原理の構造は,原理の神が存在することを大前提にして,最初から順を追って,創造原理,堕落論,復帰原理という三本柱によって構成されています。 その構造は数珠つなぎになっていて,創造原理の土台の上に堕落論が成り立ち,その上に復帰原理が成り立っています。 つまり,創造原理の一番下の土台である原理の神の存在が否定されたら,その上に成り立っている全ての原理は崩壊するという構造になっています。 そして既に述べたように,原理の神は存在しないことが証明されましたから,原理という体系らしいものは全て破棄されるしかあり得ないのです。 原理によっては,人生と宇宙に関する根本問題は何一つ解決しないし,神の存在に関しても何一つ分からないのです。 これが真実です。
ちなみに,このような批判を受けた統一教会のメンバーの中には,「じゃあ,原理よりも優れた『代案』を示して欲しい」と言う人がいます。 これは単なる「論点ずらし」であり,少なくとも私が原理研究会のメンバーだった頃(1990年代前半)に,既に教えられていた言い訳です。 このように感情的に反発するメンバーは,原理に対する批判をまともに考えようとしない傾向があります。 私はそのような人に,次のようにお願いしたいと思います。 「どうか,聞く耳を持たない人にならないで,何が正しいかを謙遜になって考えられる人になって下さい。 そうすれば,『本当の真理』に出会うことができると思います」。
ここで補足として,統一教会メンバーである太田朝久氏が『「原理講論」に対する補足説明』(初版,広和,1995年)という本を出版していますので,これについても少し説明しておこうと思います。 もちろん,上記の「簡単なまとめ(原理の神の非存在証明)」を読んで,統一原理の根本的かつ致命的な誤りをご理解いただければ,太田氏のこの本をわざわざ読んでいただく必要は全くないのですが,興味がある方のために,私なりの説明をしておこうと思います。 (この本をこのWebページでわざわざ取り上げた理由は,全国拉致監禁・強制改宗被害者の会が運営しているサイト内で,この本が「おすすめの書籍」として紹介されているからであり,この本の全文がPDFファイルで,全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会のWebサイトから自由にダウンロードできるようになっているからです。 しかも,2010年6月1日の日付と共に,「世界基督教統一神霊協会・広報局」の名の下に,「統一原理の理解と確信を深めていただくためにもご活用ください」と明記されているからです。 また,「真の父母様宣布文サイト」の「その他」の項目でも,この本の全文が公開されています。 ですので,元原理研究会のメンバーとしては,人々が彼らの詭弁に惑わされることのないように,この本の内容について説明しておく必要があると感じました。 ただ,この本も『原理講論』同様,聖書やキリスト教に関する専門的な内容が多く含まれていますので,ヘブル的聖書解釈(ユダヤ的視点からの聖書解釈)や,ユダヤ教やキリスト教に関する正しい情報を全く知らないという人は,読むと逆にだまされてしまう恐れがあります。 彼は,創世記3章に出てくる蛇のように,実に狡猾に「でたらめ」も書いていますので,その点,充分ご注意下さい。 ちなみに,なぜユダヤ的視点からの聖書解釈が大切かというと,聖書はユダヤ的背景の下で書かれているからです。 この詳細については聖書理解の難しさで詳しく説明しておきました。 特に,聖書を読む時に気をつけることを丁寧に述べましたので,是非参考になさって下さい。)
この本は主に反対牧師による統一原理批判に対抗する主旨で書かれていて,中身は二部構成になっています。 第一部は「聖書と統一原理(増補改訂)」という題で,聖書批評学の観点から,統一原理の正当化を試みています。 そして,その論旨の延長として,第二部は「『原理講論』に対する補足説明」という題で,太田氏個人の見解(統一教会の公式な見解ではない)(166頁参照)が述べられています。
本題に入る前に,聖書について,少し説明しておきます。 太田氏は第一部で,聖書批評学を支持する立場を採っていますが,そもそも聖書批評学というものは,基本的に,「原典において誤りのない神のことば」と考えられてきた聖書を,単なる人間の創作物のレベルにまで引きずり下ろして考える学問です。 (私の言う「原典(the original text)」というのは「最初に書かれた書」のことですが,太田氏のこの本では「原本」と書いてあります。 「原典」と言っても「原本」と言っても,意味が同じなら,どちらでも良いと思います。) その動機は,「聖書には本当に誤りはないのだろうか?」という,従来の聖書観(霊感説)に対する疑いであり,その疑いから出た聖書批評学は,創世記3章1節に書かれているような,神への疑いを人間に抱かせるやり方とそっくりです。 そのような考え方(最初から聖書の神を疑ってかかる考え方)で聖書を理解しようとすること自体,悪魔(サタン)の罠にはまっており,愚かなことです。 聖書に書かれている内容,特にその教えは,字義通り,そのまま信ずるに値するものです。 聖書が信頼できる理由や,聖書入門.comの動画「創世記の人々はなぜあんなに長寿なのですか。」と,それに関連した動画「聖書に書かれている事が歴史的事実なら,何故恐竜についての記述が無いのでしょうか?」「『若い地球説』と『古い地球説』は,どちらが正しいですか。」や,ハーベスト・タイムの動画「進化論と創造論」も参照して下さい。 ちなみに,太田氏はこの本の中で日本基督教団の出版物を多く引用していますが,日本基督教団は自由主義神学を信奉する教団であり,自由主義神学は聖書批評学を支持しています。 そして,太田氏は反対牧師たちの聖書の読み方に対して,「我々としては,そこに『聖書批評学』をもってこなければ,ある意味で『統一原理』の正当性を主張することは難しいのです」(80頁)と言っていますが,既に前述したように,どのような意味においても統一原理の正当性を主張することは不可能なのです。 聖書批評学を持ってこようがこまいが,関係ないのです。 太田氏は,詭弁を使って,巧妙にごまかしているだけなのです。
ところで,新約聖書によると,復活されたイエス様や初代教会の弟子たちは,旧約聖書のメシア預言を解き明かすことにより,イエス様が旧約聖書で預言されていたメシアであることを論証して,伝道したことが書かれています(ルカの福音書24章27節,44~48節,使徒の働き8章26~39節,17章1~4節,18章27~28節,28章23節参照)。 新約聖書はまだ存在していなかったので,旧約聖書だけを使って伝道したのです。 今もユダヤ人を伝道する最も有効な方法は,旧約聖書のメシア預言を説明することだそうです。 それと同じように,もし統一原理が正当な主張をしているのなら,旧約聖書と新約聖書だけを使って,再臨のキリストが文鮮明氏であることを論証できるはずです。 しかし,聖書をきちんと学べば,そんなことは不可能であるばかりか,逆に,文鮮明氏は「偽(にせ)キリスト」であることが論証されてしまうのです(マタイの福音書24章4~5節参照)。
聖書批評学や自由主義神学に興味のある方もおられるかもしれませんが,聖書に書いてあるとおり,「神は愛である」(ヨハネの手紙第一4章16節参照)ことを本当に信じるのなら,「聖書は原典において,誤りのない神のことばである」という聖書信仰を持つのが当たり前です。 なぜなら,愛に満ち満ちたお方が,人間を混乱させるような意地悪な文章を書かせるわけがないからです。 聖書が書かれた当時の人々が,誰でも理解できるように,聖霊が導かれ,聖書が誤りなく書かれたと考えないと,「神は愛である」とは言えません。 「神は愛である」という聖書のみことばをそのまま素直に信ずるのなら,聖書批評学や自由主義神学などを信奉することは,非合理的であり,矛盾しています。 別の言い方をすれば,自由主義神学を支持するということは,神よりも人間のほうが優れているという考え方をすることなのです。 それは傲慢の極みです。 また,細かい説明はしませんが,自由主義神学を支持する人たちは,そもそも「科学とは何か?」という根本的な問題を理解していないように思います。 科学に関しては,聖書と科学の関係についてを参照して下さい。 また,自由主義神学の問題点については,聖書入門.comの動画「聖書のある部分は信じているが,ある部分は信じていない,という人でもクリスチャンなのですか?」で分かりやすく説明されています。 さらに,ハーベスト・タイムの『60分でわかる旧約聖書(23)イザヤ書』のメッセージの中でも,自由主義神学者の問題点が説明されています。
ちなみに,太田氏はもともと福音派のクリスチャンだったそうです(8頁,76頁,103頁,117頁参照)。 それが本当かどうかは私は知りませんが,この本の117~119頁を読むと,彼は高校生の時に口語訳聖書と新改訳聖書を詳細に読み比べてみて,次第に,聖書に含まれている "記述ミス" や "矛盾性" に気付いたとき,「全知全能なる神は,何故そのような記述ミスを,そのまま聖書の中に放置されてこられたのだろうか?」という素朴な疑問を抱かざるを得なかったと書いています。 そもそも彼の間違いは,聖書の基本的な読み方を知らないことと読解力のなさにあったのですが,もっと問題なのは,聖書に書かれていないことや聖書が教えていないことまで知りたがったことです。 これは,「神のようになりたい」と思い,神の命令に背いたアダムと同じ傲慢な罪です(創世記3章5節参照)。 「何故どの写本も一字一句すべて同じではなく,相違点があったりするのだろうか?」というような疑問は,いくら熱心に聖書を研究しても,完全には解けないのではないかと思います。 人がいくら努力をして忠実に写本を作っても,どこかに写し間違いをしてしまうという現実を見せることで,神は人に努力の限界を教え,そのことにより,私たち人間が謙遜になることを,神は望んでおられるのではないかと思います。 もしも常に完璧な写本を作り続けることができたなら,人間は,「神のようになった」と思い込んで,とてつもなく傲慢になってしまうだろうと私は思います。 写本は神の霊感を受けていない(神の息(霊)が吹き込まれていない)ので,写本間に相違が生じてしまいますが,その相違もクリスチャンの信仰を揺るがすような重大な問題にはなっていません。 そこに,神の守りがあったと信じることができるのです。 しかし太田氏は,それ以上の答えを欲しがってしまったようです。 それは「神を信頼しない」という罪です。 より具体的に言えば,「神を第一にした生活をしていれば,自分に必要なものは全て与えられる」という神の約束(マタイの福音書6章33節など参照)を,彼は信じなかったことになります。 太田氏は,このような罪を犯してしまったようですが,その自覚すらなかったのでしょうか。 彼がすべきことは,聖書に書かれていないことや教えられていないことは「分かりません」と素直に受容することであり,神を心から信頼することにより,「聖書に書かれていないこと(教えられていないこと)は,重要ではないから,分からなくて良いのだ。神は愛なのだから,私たち人間にとって必要なことは全て聖書に書いてある」という謙遜で忠実な信仰を持つことでした。 しかし,残念なことに,彼は神を信頼せず,愚かにも統一原理という根本的に崩壊している屁理屈を正当化する作業に,喜びを見出してしまったようです。
さて,同書において,太田氏は「第二部の内容は,第一部の内容を前提としているので,第二部だけを取り上げて使用するのは止めて欲しい」(167頁参照)と言っています。 そこで第一部の内容を簡単にまとめてみます。
「新約聖書には数多くの記述ミスがある。 また,新約聖書ではクリスチャンに都合の良いように旧約聖書の聖句が引用されていて,それがユダヤ教徒にとってつまずきの石になった。 これらと同様のことが『原理講論』にも当てはまり,『原理講論』における表現上の記述ミスや聖句の引用問題がクリスチャンをつまずかせている。」
新約聖書は99.9%以上原典通りに復元されていると考えられていて,教理に影響するような記述ミスはありません。 (太田氏は「共観福音書には数多くの相違点や矛盾点がある」と言って具体例まで挙げて説明しています(40~50頁参照)が,これらはまともな聖書理解をしている人ならきちんと回答できるものです。 彼は,聖書解釈について何も知らない人を巧妙にだまそうとしていますので,ご注意下さい。 彼が挙げている聖書の具体的な「相違点や矛盾点」については,太田朝久氏の聖書批判に対する回答にまとめてみましたので,参考にしていただけると幸いです。 聖書の基本的な読み方については,「聖書の間違い」の間違い~佐倉哲氏の場合~も参照して下さい。 特に「神の霊感」については「FAQ」の項目や,聖書入門.comの「聖書には誤りは含まれていないのですか?」「聖書の成り立ちについて教えてください。」も参照して下さい。) また,『原理講論』をしっかり検討してみると,前述したように,その間違いは根本的かつ致命的なものであり,「単なる記述ミス」では済まないものです。 そして聖句の引用問題に関しては,つまり,キリスト教は論点先取の虚偽をおかしている(イエス様がメシアであることを前提として無理に聖句を旧約聖書から引用している)ので,『原理講論』も同様に論点先取の虚偽をおかしていても構わない(自分たちに都合の良いように引用されていても良い),というのです(100~114頁参照)。 しかし統一原理は,宗教と科学を統一された一つの課題としているという以上,論理的に正しくなければならないので,論点先取の虚偽をおかしていてはなりません。 「論点先取の虚偽」とは論理学の用語で,「証明を必要とする命題を前提とする誤謬」(『広辞苑』第七版)のことです。 また,『原理講論』(「総序」37頁)には,「この最終的な真理は,だれしもが共通に理解できるように,『あからさまに』解いてくれるものでなければならない」とあります。 ということは,統一原理は論理的に正しくなければならないはずですが,実際には根本から論理的に間違っています。 それゆえ,クリスチャンは統一原理を受け入れないのです。 つまり,クリスチャンが統一原理を受け入れない原因は,『原理講論』における表現上の記述ミスや聖句の引用問題にあるのではなく,統一原理の根本的な間違いにあるのです。
また,「新約聖書ではクリスチャンに都合の良いように旧約聖書の聖句が引用されていて,それがユダヤ教徒にとってつまずきの石になった」(100頁参照)というのも嘘です。 実際には,ほとんどのユダヤ教徒は新約聖書を読んだことがないそうです。 その証拠に,今でも,ユダヤ教のラビが「あれ(新約聖書)は悪魔の書だから,読むな」と同胞のユダヤ人に言ったりしているので,そのラビの言うことを信じてしまい,新約聖書を読んだことがないというユダヤ人がたくさんいるそうです。 クリスチャンとなった元ユダヤ教徒(「メシアニック・ジュー」とも呼ばれます)の中には「新約聖書にはユダヤ人を上手に殺す方法が書かれてあると思っていた」と証言される人もいれば,「新約聖書を読んでみたら,ユダヤ教の祭りや習慣などがたくさん出てきて,その内容はとてもユダヤ的だったので,非常に驚いた」と証言される人もいます。 また,「新約聖書に書かれているイェシュア(イエス)の論法が,小学校で習った論法とそっくりだったので驚いた」と証言される人もいます。 超正統派のラビの中にもメシアニック・ジュー(イェシュアをメシアと信じるユダヤ人)がいるそうです。 それどころか,ユダヤ人の中には,イエス様がユダヤ人であることすら知らない人もいるのです。 しかし,太田氏の主張するように,新約聖書における聖句の引用問題でつまずいているユダヤ教徒がいるという話は一度も聞いたことがありません。 十中八九,太田氏の作り話でしょう。 新約聖書の中にも,旧約聖書からの強引な聖句の引用によってユダヤ教徒がつまずいたという話は出てきません。 (マタイの福音書2章には,新約聖書に出てくる4種類の聖句の引用法が全て登場しているので,新約聖書における旧約聖書の聖句の引用法を簡単に学びたい方は,マタイの福音書2章を学ぶことをお勧めします。 これら(6節,15節,18節,23節)の引用法は,当時のユダヤ教のラビたちが普通に用いていたものであり,ユダヤ人であるマタイは同胞のユダヤ人が理解しやすいように,ラビたちと同じ引用法を用いて福音書を書いたのです。 『マタイの福音書(2)メシア預言の成就』参照。)
ユダヤ人たちがつまずいたのは,もっと別の理由によるのです。 例えば,ヨハネの福音書5章1~18節を読むと,ユダヤ人(ここではユダヤ教の宗教的指導者を指す)たちは,イエス様が安息日規定を破り,さらに自分は神だと宣言して神を冒瀆(ぼうとく)したと考えています。 しかし,イエス様はモーセの律法の安息日規定を破ったわけではありません。 その説明がヨハネの福音書7章21~24節に書かれています。 当時のユダヤ人たちは,宗教的指導者が勝手に作った口伝律法に束縛されていました。 (例えば,「安息日を守って,これを聖なるものとせよ」という安息日規定に対し,イエス様の時代には1500以上の細則が付け加えられていました。) 宗教的指導者たちは,モーセの律法を神聖視するあまり,モーセの律法に対して何重もの垣根(口伝律法)を作りモーセの律法を破らないようにしようとしていたのですが,実質的にはモーセの律法の正しい意味からかけ離れた律法を作り,それを守ることを誇りとしていました。 宗教的指導者たちがイエス様につまずいた(腹を立てた)のは,自分たちが権威を置いていた口伝律法を破られたからであり,イエス様は一度もモーセの律法を破ったことはありませんでした。 そのイエス様(メシア)によるモーセの律法の正しい解釈が,ヨハネの福音書7章21~24節に書かれているのです。 これは「カル・バホメル(קַל־וָחֹמֶר)」と呼ばれるユダヤ的論法で,「大から小へ」の議論とも呼ばれています。 イエス様が「あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています」(ヨハネの福音書7章22節)と言われたとおり,実際にユダヤ人たちは安息日であっても割礼を施して良いと考え,実行していました。 ならば,割礼を施すこと以上に良いこと(この箇所では病気の人を癒やすこと)をしても,安息日規定に違反するわけがないでしょうと,イエス様は言われたのです。 また,ユダヤ人たちは安息日であっても,自分の家畜が井戸に落ちた時はすぐに引き上げて助けていました(ルカの福音書14章1~6節)。 ならば,人のいのちは家畜より価値があるのだから,安息日に人の病を癒しても律法違反になるわけがないでしょうと,イエス様は言われたのです。 これがモーセの律法の正しい解釈であることを,イエス様は教えられたのです(ルカの福音書6章1~11節,13章10~17節参照)。 「安息日に良いことをするのは律法にかなっています」(マタイの福音書12章12節)と言われたとおりです。 (「カル・バホメル」の例は,マタイの福音書12章1~8節,9~14節にもあります。 この論法の解説は,『メシアの生涯(41)―麦の穂を摘んで食べる弟子たち―』『メシアの生涯(42)―片手のなえた人の癒し―』も参照して下さい。) イエス様はユダヤ人たちに,モーセの律法の精神である神のあわれみについて教えるために,預言者ホセアを通して語られたみことば(ホセア書6章6節)を引用されました。 すなわち,「『わたしが喜びとするのは真実の愛。(あるいは「あわれみ。」)いけにえではない』とはどういう意味か,行って学びなさい」(マタイの福音書9章13節。マタイの福音書12章7節も参照)と言われたのです。 私たち異邦人は,「律法」と聞くと,人を束縛するようなものとイメージしがちですが,本来は「密よりも甘い」ものなのです(詩篇119篇103節参照)。
また,イエス様が神を冒瀆(ぼうとく)しているとユダヤ人たちが考えたことは,ヨハネの福音書10章30~39節などに書かれています。 ユダヤ人たちは,宗教的指導者の言うことに盲従し,イエス様のことを「悪霊(あくれい)につかれている」と信じてしまいました(ヨハネの福音書7章20節,8章48節,52節,10章20節)。 宗教的指導者たちがイエス様を「ベルゼブル(悪霊のかしら,サタン)の力によって悪霊を追い出している」と言って,イエス様を民族的に拒否した論争(これを「ベルゼブル論争」と言います。マタイの福音書12章22~30節,マルコの福音書3章20~27節,ルカの福音書11章14~23節参照)によって,イエス様は民族的救いから個人的救いへと方向転換しました。 このベルゼブル論争の影響が一般のユダヤ人たちに広がっていきました。 そのようなユダヤ人たちに対してイエス様は「自分で何が正しいかを判断しなさい」(ルカの福音書12章57節参照)と言われ,個人的に救われる人はいたものの,民族的にはイエス様を拒否してしまいました。 しかし,イエス様は人となって来られた神ご自身でした(キリスト論参照)。 したがって,イエス様は神を冒瀆(ぼうとく)などしていないのですが,多くのユダヤ人は,イエス様が神であり人である約束のメシアであることを信じませんでした。 その理由は,聖句の引用問題などにあるのではありません。 ユダヤ教のタルムードにもイエス様に関する言及はありますが,聖句の引用問題がイエス様をメシアとして拒否する理由になったとは一言も書かれていません。
もし,新約聖書における聖句の引用問題を正確に学びたいなら,アーノルド・フルクテンバウム著/佐野剛史訳『メシア的キリスト論―旧約聖書のメシア預言で読み解くイエスの生涯―』(紙版,ハーベスト・タイム・ミニストリーズ,2016年)をお読み下さい。 フルクテンバウム博士は,代々続くユダヤ教のラビの家系に生まれ,幼い頃より旧約聖書の教育を受けて育ったユダヤ人の聖書学者で,イエス様をメシアと信じるメシアニック・ジューとして世界的に評価されています。 この本一冊を学ぶだけで,聖句の引用問題は解決すると思います。 また,新約聖書は旧約聖書の続きであり,両者の間には不思議な統一性や連続性があることも理解できると思います。 当然,太田氏の言うような「断絶」(81頁)も「ギャップ(gap)」(107頁)もありませんし,ましてや,統一原理が入り込む余地など,微塵もないことが分かります。 神の自己啓示の書は,旧約聖書と新約聖書で完結しているのです。 旧約聖書と新約聖書以外に,神の自己啓示の書はありません。 それは,ヨハネの黙示録22章18~19節と7節によって保証されています。 聖書に「耳のある者は聞きなさい」と書いてあるとおりです。 旧約聖書と新約聖書の関係については,中川健一牧師がメッセージをされている「成長セミナー(1)聖書との出会い(前半)」で,分かりやすく解説されています。 特に,旧約聖書の「型(type)」とイエス・キリストの「本体(anti-type)」の関係をよく理解していただければ,聖書は理解しやすくなると思います。
いずれにせよ,太田氏の主張は,ヘブル的聖書解釈やユダヤ教徒の実情について,何も知らない人たちをだますための的外れな話にすぎません。 例えば,この本の【資料14】(154~156頁)には,アキュラスというユダヤ教徒がキリスト者の七十人訳聖書に対抗して,独自の旧約聖書のギリシャ語訳(アクィラ訳/Aquila)を作ったと書かれています。 しかし,このギリシャ語訳を作った人物は,ラビ伝承によれば,ラビ・アキバの弟子とされているそうです。 ラビ・アキバと言えば,紀元132~135年に起きたバル・コクバの乱の精神的リーダーであり,バル・コクバをメシアだと宣言した人物として有名です。 しかし,バル・コクバは実際には旧約聖書のメシア預言を全然成就しなかったので,「偽メシア」=「偽キリスト」だったことが判明しています。 そんな人物を「メシアだ」と宣言したラビ・アキバは,当然「偽教師」です。 そんな偽教師の弟子が作ったギリシャ語訳が信頼できるものだとは,とても考えられません。 しかし,太田氏は自分の主張を正当化するために,【資料14】で示した文献を利用しているのです。 このようなやり方は,とても悪質です。 ラビ・アキバのことを全然知らない人が読んだら,簡単にだまされてしまうのではないでしょうか。 そもそも,ユダヤ人たち(祭司長たち)がイエス様を拒否したのは,一言で言えば,イエス様に対する「ねたみ」が原因でした(マタイの福音書27章18節,マルコの福音書15章10節参照)。 イエス様をねたんでいた宗教的指導者たちは,群衆を扇動し,イエス様を十字架につけたのです。 そして,現代のユダヤ教徒の多くも,イエス様をメシアだと認めないラビたちの言いなりになって,自ら新約聖書を読もうとはしないそうです。 もし本当にユダヤ教徒の真実の姿を知りたいなら,是非ご自分で確かめて下さい。 太田氏の言うことを鵜呑みにして,聖書について考えるのを放棄するのは,愚かなことであり,悲しいことです。 私のお薦めは,中川健一著『日本人に贈る聖書ものがたり Ⅳ 諸国民の巻』(初版,文芸社,2006年)という本です。 この本の第四部に,先に挙げたフルクテンバウム博士の証しが書かれています。 この証しを読んでいただければ,ユダヤ教徒がどのように新約聖書を見ているのかが,よく理解できると思います。 インターネット上では,ハーベスト・タイムの「メッセージステーション」で,ユダヤ人である『アーヴィン・サルツマン氏の証し』や『モッテル・バルストン師の証し』を聴いて,ユダヤ人の本当の姿を知ることができます。 また,イスラエル聖書大学学長(2012年現在)のエレズ・ソレフ師のメッセージ『ユダヤ人はどのようにして救われるか』も聴いてみて下さい。 『メシアを信じたユダヤ人の証言』も,とても分かりやすいので,おすすめです。 これらの証しを聴けば,ユダヤ人に関する太田氏の主張は嘘であることが分かります。 何が正しいか,自分の頭で考えて判断して下さい。
以上のことから,太田氏の言う「第二部の内容は,第一部の内容を前提としているので,第二部だけを取り上げて使用するのは止めて欲しい」(167頁参照)というのはただの詭弁にすぎないことが分かります。 彼はこのような簡単なことすらわからずに,反対牧師の言うことを「詭弁だ!」と言っている(165頁,166頁参照)ように思われます。 (あるいは,自分が嘘をついていることを知りつつ,「詭弁だ!」と息巻いているのかもしれません。 私はこの可能性の方が高いと思います。) また,「個人的な見解にすぎない」と言いながら,現統一教会メンバーや元メンバーたちに読まれることを期待していると,本の中ではっきり言っています(166~167頁,314~315頁参照)。 つまり,この本によって,統一原理の正当性を浸透させたいと考えていることになります。 実際,第二部における「個人的な見解」を,わざわざ「網掛け」で囲って,「~と理解しておく」という決まり文句で閉めている部分が多いのも,作為的な意図を感じさせます。 それは,「まさにこれが正しい理解の仕方である」と言わんばかりのやり方です。 このような書き方から,太田氏は最初から統一原理に対して非常に強い情的重みづけをしていて,決して謙虚な姿勢で「真理を探究していこう」としていないことが分かります。 彼のようなメンバーは,文氏や幹部などのアベル(上司)の言葉に対しては心情的に「事実だ」と疑いもせず,反対派の言うことは心情的に「間違いだ」と決めつけてかかる傾向があります。 彼のようなメンバーがすべきことは,まず,統一原理に対する非常に強い思い込みを,できるだけ完全に取り去ることです。 それこそが,本当に謙虚な姿勢なのです。
ちなみに太田氏は,『原理講論』に記述ミスや聖句の引用問題があることについて,「信仰のテスト」であるとか,その「信仰のテスト」に勝利できなかった場合のメシアによる「とりなし」のために必要なことだと述べています(317頁参照)。 真理を全て教えることができないのはそういう理由があるからだというのです。 しかし,全てを教えてもらっても,メシアを迎えるためには信仰基台と実体基台を自らの責任分担として努力して造成しなければならない,つまりそれが「信仰のテスト」になり得るわけですから,全てを教えてもらっても良いはずです。 また,とりなそうとして,メシアが責任をとろうとしても,(文鮮明氏自身の言葉によると)他の人が誰かの蕩減条件を代わりに背負うことはできない(『罪と蕩減復帰』238頁参照)のだから,「とりなし」には何の意味もないことになります。 そもそも,全てを教えようとしても,どう考えても不可能なのです。 文鮮明氏は「八割くらい合っていれば,それでいいというんだね」と言ったそうです(101頁参照)が,『原理講論』をしっかり検討すると,独自の体系としての正しい原理など何一つとしてありません。 統一原理は根本から全てでっち上げなのです。
全国拉致監禁・強制改宗被害者の会が運営しているサイト「統一教会Q&A 統一教会教義への疑問に答える。」の「Q&A ピックアップ」の項目には,重大な間違いがあります。
「統一原理における聖書観【重要】」によると,「原理は聖書に基づいているのではない」と書かれています。 しかし,『受難の現場』(世界基督教統一神霊協会韓国・歴史編纂委員会編,世界基督教統一神霊協会日本・歴史編纂委員会訳,初版,光言社,1986年)の166頁によると,『原理講論』の執筆者である劉孝元(ユ・ヒョーウォン)氏は質疑応答の中で次のように答えています。
この問いとこの回答の意味を正しく理解すれば,原理は聖書に厳格に基づいていることになります。 『原理講論』を執筆した本人が言っているのですから,間違いないでしょう。 そして,統一教会はこの発言を『受難の現場』という本を通して,自分たちの見解として公に発表したわけですから,原理が聖書に基づいているというのは,統一教会初期の頃からの共通認識だったということになります。 したがって,「原理は聖書に基づいているのではない」という説明は嘘なのです。
もし,原理が聖書に基づいていないのなら,そもそも原理はキリスト教とは根本的に異なる教えだということになります。 そのような,キリスト教と根本的に異なる教理を持った世界基督教統一神霊協会が,キリスト教を統一できるわけがありません。 そもそも,文鮮明氏たちが世界基督教統一神霊協会という名称を掲げた理由は,原理は聖書に基づいているという共通認識が創立者たちの間にあったからです。 「原理は聖書に基づいていない」というのは,統一教会が創立されてから,おそらく40~50年ほどたってから言われ出した,後付けの言い訳にすぎません。 実にこざかしいやり方です。
また,三位一体という聖書の教理を,「神,イエス,聖霊の三者が同一の人格であるという教え」と説明していますが,この説明は完全に間違いです。 聖書の三位一体は,「神は,実体において唯一の神でありつつ,父と子と聖霊という三つの位格において存在する」と定義できます。 三位一体の詳細に関しては,三位一体論を参照して下さい。
さらに,「神の啓示である聖書には,まだ真理が十分には書かれていない」という考えも間違っています。 聖書の正典は,ヨハネの黙示録をもって完結しました(ヨハネの黙示録22章18~19節,7節)。
私は,この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。 もし,だれかがこれにつけ加えるなら,神がその者に,この書に書かれている災害を加えられる。
また,もし,だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら,神は,この書に書かれているいのちの木と聖なる都から,その者の受ける分を取り除かれる。
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの黙示録 22章18~19節)
「見よ,わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」
(『聖書 新改訳2017』ヨハネの黙示録 22章7節)
「この書の預言のことば」とは,旧約聖書と新約聖書のことです。 なぜなら,ヨハネの黙示録は旧約聖書と新約聖書の要約になっているからです。 ゆえに,上記の聖句から,ヨハネの黙示録が書かれた後に,新たな神の自己啓示の書が与えられることはないと分かります。 真理は聖書66巻(旧約聖書39巻,新約聖書27巻)の中に,充分に書かれています。 私たち人間にとって必要なことは,全て聖書の中に書かれているのです。 よって,「聖書だけでは不充分だ」と考えることは,「神を信頼しない」という罪を犯していることになります。 文鮮明氏が「神の啓示である聖書には,まだ真理が十分には書かれていない」と考えていたのなら,彼はそもそも神を信頼していなかったのです。 神を信頼しないという罪を犯していた人が無原罪であるはずがありません。 神を信頼しないことが,罪の根源だからです。 ゆえに,文鮮明氏を「原罪のない再臨のメシア」と信じても何の意味もないのです。
統一教会は,原理の聖書解釈と既成キリスト教会の聖書解釈の違いに言及しています。 しかし,根本的な問題は,聖書解釈の違いにあるのではありません。 原理は根本から矛盾しており,論点先取の虚偽を犯しまくっているので,救いようがないのです。 統一教会の下手な言い訳に惑わされないで下さい。
神明忠昭氏は「反対牧師諸君へ- 統一神学博士からの手紙」で,キリスト教の福音派の神学に基づいた統一原理批判は的外れなものであったり,非常に偏った立場からの批判であると主張しています。
しかし,上記の「簡単なまとめ(原理の神の非存在証明)」の項目でも述べたように,原理は原理によって否定されるので,聖書解釈を知らない方でも,統一原理がでたらめ(非論理的)であることは充分に分かります。 この論文を書いた神明忠昭氏が神学博士だからといって,その肩書きに恐れをなす必要など全くありませんので,ご安心下さい。 ただし,この論文を正しく理解するためには,聖書に関する専門的な知識が,ある程度必要かと思われますので,もしこの論文の内容に興味がありましたら,上記の「補足1:『「原理講論」に対する補足説明』に関して」の項目で述べた聖書に関する内容を参考にして下さい。 「聖書は原典において,誤りのない神のことばである」という聖書観が正しいことは,イエス・キリストご自身が保証されています。 (聖書入門.comの動画「なぜ,聖書の言っていることが正しいと言えるの?」参照。) しかし,この聖書観を全面的には信頼できないと主張するクリスチャンや神学者が多いのは,とても残念に思います。 いずれにせよ,この論文においても,統一原理の正当性は何一つとして主張できていません。 東京大学卒の神学博士という肩書きを持っていても,原理の自己矛盾には全く気づかないようです。
余談ですが,神明忠昭氏のプロフィールを読むと,1944年に生まれ,1971年に東大を卒業したわけですから,27歳の時に東大を卒業したことになります。 ということは,プロフィールには書かれていませんが,おそらく浪人か留年を経験しているのではないかと思われます。 もし東大を卒業するまでに回り道をしていないのなら,22歳で東大を卒業しているはずですから,5年分もの時間をどこかで回り道をした計算になります。 神明忠昭氏は一発で東大に合格できるほど,優秀な人物ではなかったのかもしれません。